友好増進のため共に奮闘した両国人民

中国社会科学院日本研究所研究員 蒋立峰

日本政府は1945年8月14日、ポツダム宣言を受託し、無条件降伏した。中国人民は抗日戦争の偉大な勝利を勝ち取った。徐永昌上将は9月2日、戦勝国中国の代表として、東京湾のミズーリ艦上で行われた日本降伏文書調印式に出席した。9月9日、南京では中国戦区の日本軍降伏式が行われた。10月25日、中国政府は台湾で日本軍の降伏を受け入れ、翌日、「台湾と膨湖列島の中国への正式復帰」を宣言した。

日本軍国主義の侵略は中国人民に無比の苦しみと災難をもたらした。日本降伏後、中国政府は南京などに軍事法廷を設け、厳粛、真剣な審理のすえ、南京大虐殺の主犯、谷寿夫ら148人の戦争犯罪者を死刑に処し、310人の戦争犯罪者に無期あるいは有期の懲役刑を言い渡した。無事のかぎりを働いたこれらの戦争犯罪者は、ついにしかるべき懲罰を受けたのである。中国政府と人民は、寛容と国際人道主義の精神にのっとり、幾多の困難を克服して、投降した210万人にのぼる日本の軍人、捕虜、一般居留民を日本に送還した。日本軍国主義者の残虐無道と、中国人民の寛容さ、度量の大きさは鮮やかなコントラストをなしていた。

1947年、トルーマン・ドクトリンが発表され、世界は冷戦時代に入った。アメリカは対日政策を転換して、日本をアジアにおける対ソ基地にするため、日本の再起を極力援助した。そのため、中国の各地では48年、アメリカが日本の再起に加担することに反対し、日本の再武装に反対する民衆の声が出てきた。しかし、当時中国は内戦のさなかにあり、日本はアメリカの占領下にあったため、中日関係には大きな進展は見られなかった。1949年に入ってから、日本国内では対中関係を回復し発展させるよう求める声が日ましに高まり、同年5、6月、日中貿易促進会、日中貿易促進議員連盟、日中貿易協会などの組織が相次いで発足した。前の二つは、その後長いあいだ中日関係を促進するのに重要な役割を果たした。

1949年10月1日、中華人民共和国が成立して中国を代表する唯一の合法政府となり、台湾に引っ込んだ国民党の蒋介石グループは、その日から中国を代表する資格を失った。中国政府と人民はアメリカの対日片面講和の陰謀に断固反対し、中国政府の参加なしに調印されたサンフランシスコ対日講話条約は違法であり、無効であるとの声明を発表した。しかし、吉田茂内閣はアメリカに追随して中国を敵視し、封じ込める政策をとり、1952年に台湾当局との「講話条約」に調印した。また多くの障害をもうけ、中日関係を長期にわたってきわめて不正常な状態に置いた。

中国政府と人民は、アメリカの反中国政府と日本政府の誤った選択に強く反対し、中日友好関係を回復、発展させるために努力をはらった。日本人民もそのために積極的な闘争を繰り広げた。1949年11月、日本の代表団は万難を排して北京にたどり着き、アジア・オセアニア労働組合会議に出席した。1950年4月、日本の進歩的人士たちの積極的活動によって、「日中貿易促進に関する決議」が参議院で採択された。同年9月、日本中国友好協会が発足し、日本で日中友好運動を展開する指導核心となった。1952年5月、帆足計、高良とみ、宮腰喜助の3氏は公式に中国を訪問して中国国際貿易促進委員会との間で第一次中日民間貿易協定に調印し、中日貿易の道を切り開いた。

1953年3月以降、中国政府は両国人民の友好増進という願望から出発して、3万人をこえる中国残留日本人の帰国を援助した。1954年には417人の日本人戦犯を特赦し、さらにはじめての中国代表団として中国紅十字会代表団を日本に派遣した。1955年、中国漁業協会と日中漁業協議会は最初の中日漁業協定に調印し、中国人民対外文化協会と日本憲法擁護国民連合は「中日両国の文化交流に関する協定」に調印した。1956年、中国政府は3回に分けて、起訴を免除された1017人の日本人戦犯を釈放し帰国させた(裁判を受けた45人の日本人戦犯も64年3月に全員釈放された)。

中国政府は実際行動で、日本との正常な関係を樹立したいとの願いを示した。1954年12月に首相になった鳩山一郎氏も、関係正常化に積極的な態度を示した。しかし、1957年2月に政権の座についた岸信介は、6月に台湾を訪問して、蒋介石グループの「大陸反攻」を扇動し、日本の対中政策は再び台湾一辺倒となった。これに対し、中国政府は「漸進」と「積み上げ」方式で両国関係の発展を推し進めた。両国人民が政治、経済、文化などの分野で進めた友好交流は、中日友好関係を発展させる基本的な原動力となり、「民間をもって政府間関係を促す」ことが、中日友好関係を発展させるユニークな方式となった。1958年5月、長崎で中国国旗侮辱事件が起きたため、両国間の交流は全面的に中断した。中国政府は、日本政府が両国関係を回復させるにあたって明確に承認すべき「政治三原則」(中国敵視政策をとらない、「二つの中国」をでっち上げない、中日国交正常化を妨げない)と「経済三原則」(政府間協定、民間契約、個別配慮)および政経不可分の原則を打ち出した。これらの原則はのちに、中日関係を正常に発展させる重要な保証となった。

中国政府と中日両国人民がともに努力し、日本政界の有識者も熱心に活動するなかで、中日民間経済・貿易関係は日ましに発展し、1962年11月には、中日貿易に関する廖承志・高碕達之助の「覚書」(L・T貿易)が調印された。これは民間の形式をとりながら政府も接触した半官半民のものであった。1963年10月には中国日本友好協会が成立し、それによって、経済文化などの分野における両国の友好往来は大きな発展をとげた。1965年に行われた中日青年友好大交流は戦後の中日関係史における重要な一ページとなった。中日両国人民が友好関係発展のために努力、奮闘した精神と業績は決して消えることはない。

1964年11月に政権の座についた佐藤栄作は、7年余にわたって、親米、親台湾、反中国の政策をかたくなにとりつづけ、このため、中日両国政府間の関係はいっこうに進展しなかった。1970年前後、中国は日本軍国主義復活に反対した。これは日本の再軍備を食い止め、日本軍国主義復活傾向に対するアジア諸国人民の警戒心を高めるうえで一定の役割を果たした。にもかかわらず、中国国内の政治、経済情勢の不安定は、中日関係を発展させるのに不利な影響を与えた。

「北京週報」より 2005/09/02