靖国神社に祀られるA級戦犯:平沼騏一郎

平沼騏一郎は津山藩(現在の岡山県)の藩士の家に生まれ、帝国大学法学部に入学した。1923年、山本権兵衛内閣の法務大臣に就任した。

平沼は日本政界で「敬神家」と呼ばれ、天皇を尊敬かつ崇拝し、日本の国体を敬い、日本は「神の国」であり、天皇が親政をすべきと主張した。彼は1924年に国家主義で国粋主義の団体を創立し、「国本社」と名づけた。

平沼の影響を受け、司法界の原嘉道、鈴木喜三郎、山岡万之助、内務官僚の後藤文夫、海軍界の加藤寛治、末次信正、陸軍界の荒木貞夫、真崎甚三郎、小磯国造らが彼の旗の下に集った。彼らの多くは拡張主義を熱狂的に主張する軍国主義分子で、特に陸海軍関係者は、後に侵略戦争を発動する中心メンバーとなった。

1939年1月、近衛内閣が総辞職を宣言。平沼騏一郎は総理大臣に就任し、平沼内閣を組織した。当時、日本はすでに全面的な中国侵略戦争を始めており、陸海軍の主力は中国の戦場から抜け出すことができず、日本の人、財、物等の戦争資源が日に日に欠乏し、政府が対策を講じて、局面を打開することが求められていた。平沼は着任早々「生産力拡充計画要綱」を出し、日本の人力、物力、および財力を総動員して、軍需産業の生産規模を拡大し、中国侵略戦争を維持することを決定した。これに伴い、兵役法を改正し、短期兵役制を廃して国民兵役期間を延長し、青壮年を次々と戦場へ送り出した。

1939年3月、平沼内閣は「国民精神総動員委員会」を設置。文部大臣である荒木貞夫陸軍大将が委員長となって、さらに残虐な憲兵警察制度を実施し、全国の人、財、物をすべて政府当局の手中に集約。国民全体を無条件に戦争協力へ駆り立て、軍事独裁のファシスト戦争体制を築き上げた。

平沼の任期中、ノモンハン事件が勃発。関東軍は中蒙国境で大規模な武装衝突を引き起こした結果、ソ連軍に一個師団を潰滅させられ、日本側は交渉の席につき、ソ連と停戦協定を結ぶことを余儀なくされた。

1940年7月、平沼は近衛内閣の内務大臣および国務大臣に就任。近衛内閣の重要メンバーとして、内閣を戦争拡大、対米開戦の道へ積極的に導いた。1945年4月、平沼は枢密院議長となる。この時、日本はすでに大敗を重ね、収拾がつかない状況となっており、武器を捨て無条件降伏するよりほかなかった。しかし、日本の行く末を論じる御前会議の席で、平沼は「国体」維持の立場から、国体を残すことに固執し、無条件降伏に反対。時には号泣して訴え、衆議に反論し、必死になって彼の「国体論」を擁護した。

日本が無条件降伏を宣言して間もなく、平沼はA級戦犯の疑いで逮捕され、巣鴨プリズンへ収容された。1947年11月、極東国際軍事裁判は中国、アメリカ、イギリス、オランダに対する「侵略戦争罪」、およびノモンハン事件発動の責任により、「侵略戦争共謀罪」で終身禁固という判決を下した。

                           「人民網日本語版」