靖国神社に祀られるA級戦犯:梅津美治郎

梅津美治郎は1882年に生まれ、1903年に陸軍士官学校を卒業、1910年に陸軍大学を卒業した。

1934年3月、梅津美治郎は中国駐屯軍司令官となる。1935年5月、梅津は天津日本租界で親日新聞記者二名が殺害された事件をきっかけに、国民党の北平軍分会代理委員長である何応欽へ、「東北地方掃討と華北からの中央勢力撤退」という理不尽な要求を出し、酒井隆駐屯軍参謀長と高橋坦駐北平公使館武官が何応欽と会見して、要求事項の受諾を迫った。

同年7月6日、日本の軍事と外交による圧力を受けて、何応欽は文書形式による日本側の要求受諾を強要され、いわゆる「梅津・何応欽協定」を調印した。(1)河北省内の国民党支部をすべて撤廃(2)国民党駐河北省の東北軍第51軍、国民党中央軍および憲兵三団の撤退(3)河北省主席である于学忠の罷免(4)すべての抗日団体とその活動の取り締まり――が主な内容となっている。

梅津美治郎は1938年5月に日本軍第一軍司令官となる。日本軍を率いて山西省を侵略し、いわゆる「治安粛清作戦」を行い、殺光(殺し尽くす)、焼光(焼き尽くす)、槍光(そうこう=奪い尽くす)という非道な「三光作戦」を実行した。

1940年、梅津は陸軍大将へ昇進。1941年、1942年に「関特演」(関東軍特殊演習、ソ連を仮想敵国とする軍事演習)を命じ、関東軍部隊の訓練を行った。太平洋戦争が勃発すると、梅津は日本軍軍部へ20万人余りの兵力を提供した。1944年までに、関東軍は太平洋や中国等の戦場へ多くの精鋭部隊を送り込んでいる。1940年12月、梅津は第731部隊(細菌兵器製造部隊)の4支部および関連駐屯地設立に関する秘密命令にサインした。

東条英機内閣が太平洋戦争の失敗から崩壊し、小磯国昭を首相とする新内閣が組織されると、梅津美治郎は参謀総長に任命される。1944年8月、梅津は帝国陸海軍作戦の指導大綱を立案し、「帝国本土を中核とし、資源要域としての南方圏と、両地をつなぐ要域を確保し、組織的戦闘を徹底し、敵の進攻を阻止する」という基本方針を定めた。

第二次世界大戦の終結前夜、梅津美治郎や阿南惟幾陸軍大臣、豊田海軍参謀総長らは敗色濃厚となってもなお失敗を認めず、徹底抗戦を要求し、日本天皇に拒絶される。9月2日、天皇は梅津と重光葵外務大臣に対し、日本軍部を代表して戦艦ミズーリ号の降伏文書調印式に出席するよう命じた。

1946年4月、極東国際軍事裁判は梅津美治郎、重光葵ら4名の逮捕を命じた。1948年11月、梅津はA級戦犯として終身禁固の判決を下された。1949年1月8日、梅津美治郎は癌を患い、東京巣鴨プリズンで死去した。

                     「人民網日本語版」2005年7月28日