靖国神社に祀られるA級戦犯:東条英機

東条英機は日本軍国主義によるアジア侵略、中国侵略の中心となった戦争犯罪人である。彼が日本陸軍大臣や内閣総理大臣を務めていた間、日本の軍隊はアジアの10以上の国や地域を狂ったように侵略し、踏みにじった。

東条英機の父・東条英教は下士官から陸軍中将へ進んだ軍人で、東条英機は東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、日本陸軍大学で学び、厳格な軍事教育を受けた。

1935年9月、東条は関東軍憲兵司令官として中国東北地方へ派遣され、現地住民の抗日闘争を鎮圧した。

1937年3月、東条は関東軍参謀長に就任。6月、東条は日本軍大本営を上奏し、「対ソ戦に備えるという観点から現在の中国の情勢を見ると、兵力が許せば、まず南京政権に一撃を与え、背後の脅威を取り除くことが最上策と確信する」と主張した。七・七事変(盧溝橋事件)後、東条英機は日本軍を率いて張家口、大同、集寧、綏遠、包頭等を占領し、「察南自治政府」を樹立。東条が指揮した察哈爾作戦は、「関東軍の電撃作戦」と称され、日本陸軍から「関東軍の功績は、東条参謀長による」と評価された。東条はまた、日本政府から第一号となる「戦功賞状」を授与された。

1941年10月、東条英機は内閣総理大臣兼内務大臣、陸軍大臣、および対満事務局総裁に就任し、陸軍大将に昇進した。これに先立って、彼はファシスト精神を誉めたたえる「戦陣訓」を発表し、日本軍将兵に「命令一下欣然として死地に投じ」、「不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし」と説いた。同年11月初め、東条をはじめとする日本政府は、御前会議でアメリカ、イギリス、オランダとの開戦を决定した。11月中旬、東条は臨時議会で戦争演説を行い、日本の侵略拡大に対するイギリスやアメリカの妨害を非難し、国民に節約を呼び掛け、「一億国民総出陣」を提唱した。臨時議会は東条の要求に応え、臨時軍費38億円の追加予算案を承認した。

1941年12月7日、日本連合艦隊は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が勃発した。同日、日本軍は東条英機の命令により、タイ、マレーア、フィリピン、グアム、香港等へ次々と進攻を開始した。12月8日、アメリカとイギリスは日本と戦争状態にあると宣言した。

1944年4月中旬、中国大陸と南洋における日本軍の連係強化のため、東条英機は在中日本軍に「一号作戦」を発令し、中国を横貫する平漢線、粤漢線、湘桂線の早期打通を命じた。これは東条が中国大陸で仕掛けた最後の大規模攻撃となる。同年7月18日、日本がアメリカとの海戦で再三にわたる大ダメージを受け、中国侵略戦争でも失態を重ねたことで、東条内閣は辞職を迫られ、東条英機は内閣総理大臣、陸軍大臣および参謀総長の職務を辞し、軍政の舞台から退いた。

 1945年8月、日本は無条件降伏を宣言した。9月12日、東条英機は自殺未遂を図り、逮捕投獄された。1948年11月12日、東条英機は極東国際軍事裁判で、戦争を発動し、他国を侵略した等の罪で死刑判決を受けた。12月22日に絞首刑が執行された。

                             「人民網日本語版」