靖国神社に祀られるA級戦犯:松岡洋右

松岡洋右は1880年に山口県で生まれる。1898年、米オレゴン大学へ留学。1902年に卒業後、帰国して外交官試験を受け、外務省に採用される。

1931年の「九・一八事変(満州事変)」後、日本は武力で中国東北地方を占領し、「偽満州国」の傀儡政権を作り上げた。中国政府の訴えにより、国際連盟はジュネーブで臨時会議を開催。松岡洋右は日本代表団の首席代表となる。国連討論の中で、日本は孤立。1933年の決議採択時には、全43カ国中、42カ国が中国東北地方に対する中国の主権を認め、日本の占領を不当と判断した。日本だけが自国の行いに賛成票を投じた。表决後、松岡洋右は登壇して、日本は採択された決議を受け入れられないと演説し、後に国連脱退を宣言した。

1940年7月、近衛文麿が新内閣を組織し、松岡洋右に外務大臣就任を要請。松岡洋右は「まずドイツ・イタリアとの関系を強化し、アメリカとの無益な衝突を極力回避すべきだ。ただし、アメリカが武力で干渉してきた場合は、断固として排除しなければならない」と提案。彼はまた、ドイツとソ連が条約を締結した場合には、ソ連を三国同盟に引き入れ、4国が力を合わせてアメリカに対抗することを主張した。

異分子排除のため、松岡洋右は40名の大使および公使を入れ替え、外務省内の米英派を粛清し、三国同盟の基礎を作った。9月27日、日独意三国軍事同盟を調印。松岡洋右は東京でドイツ・イタリア両大使、および日本政府要人を招待し、盛大な祝賀会を開いた。翌年3月、松岡洋右は独ベルリンを訪問し、ヒトラーと会談。また、彼は「大東亜共栄圏」理論を強固に訴え、日本の外交政策と日本ファシストの対外拡張政策を緊密に結びつけた。

1945年11月、戦犯容疑者の第二段に名前が挙げられ、逮捕される。1946年5月3日に、極東国際軍事裁判が開廷したが、松岡洋右は肺結核が悪化して出庭せず、6月27日に病死し、免訴となった。

                           「人民網日本語版」