靖国神社に祀られるA級戦犯:松井石根

松井石根は日本A級戦犯の一人であり、日本軍南京大虐殺事件の元凶とされる。父・松井武国は武士。1898年に日本陸軍士官学校を卒業し、日本陸軍大学へ進んだ。

1904年に日露戦争が勃発。松井石根は学業を中断し、日本軍に同行して中国東北地方へ渡り、ロシア軍と戦った。

1937年8月15日、松井は上海派遣軍司令官として中国へ派遣され、日本軍の指揮をとった。同年11月、中国侵略中の日本軍は松井石根の指揮のもと、上海を攻め落とした。11月24日、松井石根は「第二期作戦大綱」をまとめ、12月上旬の南京進攻を決定した。12月1日、日本参謀本部は松井石根の要求に応え、華中方面軍による中国の首都・南京攻略を電令した。同日、松井は南京攻略準備の作戦命令を下した。

同年12月17日、松井石根は華中方面軍を率いて南京を攻め落とした。日本軍は南京占領後、凄惨かつ非道な大虐殺事件を起こした。約6週間の間に、日本軍将兵は南京城内で無差別な放火・殺害・暴行・略奪を繰り広げ、暴虐極まりない反人道行為を犯した。南京市民および武器を捨てた中国軍人が、日本軍に銃撃、刺殺、生き埋め、溺死等の残忍な手段で集団虐殺、または個別に殺害され、その数は30万人以上に達した。日本軍に暴行された女性は2万人を超える。日本軍はまた、南京城内で大規模な略奪や放火を行い、歴史ある名城の三分の一を破壊し、その財産損失は計りしれない。華中方面軍司令官である松井石根は、南京占領に先立ち、占領後は「地区ごとに城内の掃討を行うこと」と命じていた。松井石根は南京大虐殺事件に対して回避できない責任を負っている。

 南京における日本軍の暴行は国際社会を震撼させた。日本の同盟国・ドイツから派遣された当時の南京駐在代表は、母国政府への報告の中で、「これは個人ではなく陸軍全体、すなわち日本軍自体の残虐な犯罪行為」であり、日本軍は「野獣の集団」で、「自身の恥となる記念碑を打ち立てた」と述べた。国際世論の巨大な圧力に迫られ、日本政府は1938年3月5日に松井石根とその部下である将校約80人を呼び戻した。同年7月20日、松井石根は内閣参議となり、1940年に辞職。1942年4月4日、松井石根は天皇から叙勲を受け、功一級金鵄勲章を授与された。

 日本敗戦後の1945年9月19日、駐日同盟軍本部は、松井石根を戦犯として逮捕投獄する命令を下した。

尋問の中で、当時は病気のため、部下の暴行を阻止できなかったと松井石根は弁明した。極東国際軍事裁判は証拠を挙げつつ、「彼の病は、指導下にある軍隊の作戦行動を指揮することを妨げるものではなく、このような暴行が発生した際に同市を数日間訪れることを妨げるものでもなかった。このような暴行に責任を負う軍隊はまた、彼の指揮下にある。彼はこのような暴行について知っていた。彼には自身の軍隊を統治し、南京の罪のない市民を保護する義務と権力があった。以上の義務履行を怠ったことから、犯罪責任があると見なさざるをえない」と反駁した

1948年11月12日、極東国際軍事裁判は、松井をA級戦犯として絞首刑に処すという判決を下した。12月23日零時、松井石根は東京巣鴨プリズンで絞首台へ送られた。

                             「人民網日本語版」