世界の耳目集めた上海

           文・黄秀芳 写真提供・新華社

 ――2001年10月15日から21日まで、アジア太平洋経済協力会議(APEC)が上海で開催された。これは今までに中国で開かれた国際会議の中で、規模がもっとも大きく、もっともハイクラスで、影響のもっとも大きいものであった。APECに参加している21カ国・地域の首脳と、1万人以上の来賓、3000人以上の記者が上海に集まった。APECは閉幕したが、会議が開かれた7日の間に、上海が示したさまざまな姿は、人々にとって忘れ難いものとなった――編集者

APECの経済人サミットの会場

 太平洋の西に位置する上海は、中国第二の人口を有する大都市である。黄浦江の流れが上海を浦西と浦東とに分け、二つの市街区は川を隔てて互いに望むことができる。川の西岸は有名な外灘(バンド)で、アヘン戦争の結果結ばれた『南京条約』(1842年)で、上海は開港を迫られた。いまでも残っている植民地時代の、各国の風格の異なる建物が高くそびえたっている。

 川の東岸は陸家嘴で、金融貿易区がある。改革開放政策に基づいて、1990年から浦東新区の建設が始まり、新しく開発された近代的な建築群がびっしりと建ち並んでいる。APEC首脳会議は、この東岸の一角で開催されたのである。

    「頂呱呱(すばらしい)」だった準備

APEC開催中
の上海の夜景

 西岸から東岸に一歩足を踏み入れると、視野が広々と開けてくる。浦東のメーンストリート「世紀大道」を車で走る。道幅は広く平坦で、延々とまっすぐに伸びているコンクリートの道。その道の両側には雄大なビル、咲き競う花々、懸けられたAPECの旗とスローガン。それらが、快晴の秋空の下、真新しいこの街に照り映えて、鮮やかに見えた。「これが私の上海? 私の浦東?」と、地元の人でも我が目を疑うほどの変貌ぶりである。

 APECの主催国は慣例として、最良で、しかももっとも代表的な都市を開催地に選ぶ。例えば、アメリカはワシントン州シアトル、インドネシアはジャカルタ、日本は大阪など、みなそうであった。

 2001年のAPECの前に開かれた重要な高級事務レベル会合と貿易担当大臣会合は、それぞれ北京、深ロレ、大連、蘇州で開催された。そして大きな意義をもつ会合である外交・貿易閣僚会議と非公式首脳会議は上海のために残された。なぜ上海で開催されるのか。政府の言い方を借りれば、上海の今日のような成功は、対外開放政策を実行し、貿易と投資を自由化した典型的な模範例であり、APECが提唱している主旨にぴったりとかなっているからだ、ということになる。

 中央政府は上海政府に対し、念入りに準備し、万に一つも失敗がないよう要求した。そこで会議の準備作業は早くも1999年から始まった。準備委員会のメンバーだけで500人に達した。

3000人以上の記者が集ま
った上海のAPEC会議

 上海市政府は3億元近い資金を投入した。上海科学技術館、上海国際会議センター、上海国際プレス・センターが新しく建設された。敷地面積1万6000平方メートル、4000人を収容できるプレス・センターは、プロードバンド・ネット、マイクロウェーブ電送、衛星通信などの設備があり、メディアが24時間、ニュースを発信できる。各国・地域の首脳が泊まるホテルにも、新しい設備と施設が必要に応じて配置された。

 会議関係者が宿泊するホテルには、各室にプロードバンド・ネットとケーブルテレビが設置され、部屋から一歩も出なくとも、APECのニュースを見たり、送ったりすることができる。浦東空港には、APECに参加する首脳の専用機のために、30機が同時に駐機できる3万平方メートルの専用駐機場がつくられた。

 2000年からは、上海の歴史始まって以来の、規模の大きな都市景観の整備活動が始まった。八カ所の大型緑地がつくられ、延べ300万平方メートル以上の道路が整備された。その事業のスピードに市民は驚いた。「一カ月もしたら、家の前まで緑になってしまった」と言うほどだった。

 次の数字から、APECを順調に挙行するために上海市政府が払った努力をうかがい知ることができる。

 連続テロ事件発生後、ブッシュ
 大統領が最初に訪問した外国は
 中国であった。APECで中米
 首脳は友好的に会談した。

 2200台の会議用車両を調達し、1万人のボランディアを訓練し、5000本の会議用の電話回線を開き、万も超す警察官と警備員を出動させ、200万本以上の植木鉢の花で街を飾った……

 上海市政府は開催に当たって「三つの優」という要求を出した。「三優」とは「優美な都市景観、優良な環境、優れたサービス」である。そしてこれまでにないほど素晴らしいAPECにする、と宣言したのである。

 筆者が泊まった上海名城花苑ホテルからは、記者の仕事に便利なように、プレス・センター行きのバスが15分ごとに出た。ホテルの玄関には時刻表があり、バスは時刻表通りに運行した。各ホテルと会議が開かれる建物とを結ぶ専用バスは、千台も用意された。

 上海がAPEC会議を挙行する際に示した組織力や動員力、表現力によって、来賓たちは、この極東の大都市が持つ気概と優雅さとを深く感じたことであろう。

 10月20日の夜、黄浦江では盛大な音楽花火大会が開かれた。200万米ドルもする花火が、わずか20分の間に夜空を焦がして打ち上げられた時、燦爛と輝く花火の光りが外灘と浦東を、まるで夢の仙境のように変えたのだった。

 この花火大会を企画・演出したのは、かつて上海戯劇学院で学んだ蔡国強氏である。彼は連続四回もベニスの双年展に参加し、前衛芸術家として衝撃を引き起こした芸術家である。今までは火薬を主に使ってテーマを表現してきた蔡氏だが、今回は初めて花火を使い、しかも国内では初めての作品だという。「これは個人の作品ではなくて、国そのものが計画した、国そのものの祭典です」と彼は言うのである。

 APECは21日に幕を下ろした。その晩、今回の会議の準備について、どう評価しているかという上海の記者の質問に答えて、江沢民主席はこう述べた。

 「会議に参加した二十の国と地域の首脳が一致して述べた意見は、上海語で言えば『頂呱呱』(すばらしい)ということです」

 さらに江主席はこう付け加えた。「一つの中国のことわざで言うなら『后来者居上』(後の雁が先になる)です」

        上海発展の一里塚に

 1991年に、はやくも中国はAPECのメンバーになったにもかかわらず、2001年にもし中国でAPECが開かれなければ、大多数の中国人は「APEC」というこの文字が何を意味しているのかわからないままだったかも知れない。今回の会議が、APECに関する知識を普及するのに役に立っただけでない。頭脳明敏の上海の人々は、この会議が上海で開かれる意義と役割をたちどころに理解した。

 6年以上も上海市長をつとめている徐匡迪市長は、記者会見でこう述べた。

 「この会議を通じて、各国・地域の首脳に、上海が経済的活力をもち、良好なインフラを備え、コストが低く、質の高い労働力があることを、より深く理解してもらうことができる。各国・地域と上海との協力をさらに進め、中国との協力に対する確信を深めることができる。そして上海とAPECの各国・地域との交流と協力を、新たな段階に推し上げることをわれわれは期待する」

 さらに易富証券ネット総裁の陳暁峰氏の発言はもっと直接的で明瞭だった。彼はこう述べた。「株取引のうえで利益になる、いいニュースだ」

 APECの意義を上海市民が深く認識したからこそ、会議に伴って交通が規制され、出かけるのに不便となっても、この会議によってもたらされる今後の発展の展望と較べれば、タクシーの運転手の言うように「こんなものは一時的な不便で、どうということはない」のである。そしてこの運転手はこう言うのだ。「身近な街や景観がどんどん美しく変わっていく。会議が終われば、このインフラは毎日、庶民が使うものになる。上海が魅力十分の都市になれば、投資や視察や観光に来る人がますます増え、前途有望だ」

 チャンスがあれば、それをしっかりつかんで、上海のイメージを誇示する。こうした意識がすでにこの大都市の市民一人一人に浸透している。こんなに高いレベルの「ソフト」を有している都市は、どこにでもあるわけではない。だから、香港工業貿易署署長は上海についての印象を聞かれたとき、すぐには適当な言葉が見あたらず、とうとう「非常至Q」の四文字で表現するほかはなかったのだ。これは「ものすごい」という意味である。

 1920、30年代の上海は、「東洋の夜のパリ」と呼ばれた。1949年から76年まで、上海の国民総生産(GNP)は全国の6分の一を占めていた。今、世界の経済成長の速度が全般に鈍化している中で、中国はやはり7%以上の速度で成長している。だが上海の成長はそれよりはるかに早い。2001年の1月から9月までの間、上海の経済成長率は10・3%だった。

 こうした高い成長は、まれにみるほどの変化と多くの発展のチャンスをこの都市にもたらした。米国のブッシュ大統領が上海に着いたその日、上海の変化に驚き、不思議に思うとともに、信じられないという気持になったという。なぜならブッシュ大統領は、26年前に来た上海の印象と現在とを較べたからだ。

 上海の発展は日進月歩だ。浦東を例にとれば、上海の観光名所であるテレビタワーの「東方明珠」など百以上の高層建築物はどれも、建ってから10年にもなっていない。中国でもっとも高い420メートルの「金茂大厦」は、20世紀末に建てられたのだが、その隣に建てられる「上海環球金融大厦」に数年後には追い抜かれる。

 米国の有力財界人の一人は、上海の陳良宇副市長にこう述べている。

 「上海は確かにたいした都市だ。中国の窓口となっていて、上海に来た人はみな誰でも中国と商売したいという誘惑に負けてしまう」

 その通り。上海はすでにAPECメンバーの投資が密集する所の一つとなった。昨年8月までの累計で、APECメンバーの上海への投資で認可された項目はすでに2万700件に達した。外資の契約高は344億5100万米ドル。上海市がこれまでに導入した外資の額の68・32%を占めている。浦東地区には、世界の「トップ500の企業」に名を連ねる多国籍企業の中の146社が、すでに200以上の項目に投資している。

 APEC首脳会議とともに開かれたAPECの経済人サミットには、世界の「トップ500の企業」のうち八十数人の企業の首脳が集まり、これまででもっとも多い出席数となった。これらの大企業の理事長や最高経営責任者(CEO)たちに、上海はとてもよい印象を与えた。「中国に洗脳された」と形容する人もいたくらいだ。

 
   上海のAPECに参加した各国・地域の指導者た
   ちは、記念撮影におさまった(撮影・楊世忠)

 

 世界の大富豪、ビル・ゲーツ氏は、さらに実質をともなった行動をした。これまであった「マイクロソフト・アジア技術センター」を「マイクロソフト・グローバル技術センター」に昇格し、上海市政府との間で上海のソフト産業の発展を促す協力の覚書にサインした。これからは、上海市政府は最新のソフトを使うことができる。APEC開催期間中、マイクロソフト社は一隻の船をチャーターし、その最新のソフト「Windows XP」の大型広告を船に乗せて黄浦江を行ったり来たりした。

 今度の上海訪問について、ビル・ゲーツ氏は「とても大きな意義があり、マイクロソフトの発展の歴史における一里塚である」と述べた。

 確かにそうだ。上海にとっても、今回のAPECの開催は、発展の「一里塚」となるに違いない。(2002年1月号より)