湖北省シ帰県三峡ダム地区
  新しい街に生きる

                  写真・文 郭実

 
銀杏沱村に移住した農民
 
 
広場のオブジェを通して
見た、新県城の住民小区
 世界の注目を集める長江三峡ダムプロジェクトは、1993年の着工以来、9年の歳月が流れた。2002年、ダム(堤体)の高さは185メートルに達し、ダムサイトの上流、下流に造られた締め切りダムが徐々に取り除かれて、貯水を利用するための取水と導水が始められる。また、船行用の水門が完成し、試験運航がスタートする。

 2003年には、ダム貯水池の水位は海抜135メートルになり、船の運航や発電タービン二台の運用が始められる予定だ。そうした中、ダム水没地区に住む百万あまりの住民移転計画も順調に進められている。昨年9月、現地に赴いた記者は、ダム地区の移住者たちと移住先の新しい街――湖北省の新シ帰県城(県の人民政府所在地である街)を取材した。

堂々とした雄姿をほこる、
建設中の長江三峡ダム
シ帰県の新県城をはるかに望む

 シ帰県は、湖北省南西部の宜昌市内に位置し、長江三峡とよばれる三つの峡谷(西陵峡、巫峡、瞿塘峡)にはさまれている。戦国時代(前475〜前221年)に有名な大詩人・屈原が生まれたところでもある(現・シ帰県内)。史書の記載によると、漢代(前206〜220年)に初めてシ帰県が置かれ、続く三国時代の蜀漢・章武元年(221年)には、蜀王となった劉備がシ帰県城を築いたことから、ここが別名「劉備城」とも呼ばれた。唐の武徳2年(619年)になると、シ帰県は帰州と改称され、「帰州城」と呼びならわされた。

 その後、帰州は6回もの移転を余儀なくされた。が、帰州城という呼称は一貫して伝えられ、1981年にはシ帰県人民政府の所在地として、県城シ帰州鎮が置かれたのである。現在の帰州鎮の面積は70万平方メートル。長江に沿ってヒョウタン形をした土地で、鎮には屈原の祠と牌坊(鳥居の形をした牌楼)が現存する。

トレーニング器材は、住
民たちに喜ばれている。
休み時間に校庭で体
操をする小学生たち

 建設される長江三峡ダムは、この帰州鎮の下流にあたる。ダム建設にあたっては、シ帰県から10万人の移住が迫られた。貯水後には、帰州鎮もやはりダムの底に沈んでしまうのだ。計画に基づき、帰州鎮をそっくり長江西陵峡の南岸にあたる山の斜面に移すことになった。三峡ダムから下流へ1キロほど離れた、副ダムに近い場所である。

 シ帰県の住民たちは92年から移住をはじめ、これまでに合計7万人が移住を終えた。新しい県城は98年9月にその移転を終え、現代的で美しい新シ帰県城が三峡ダム地区にお目見えしたのである。

 長江の河辺に沿って新設された道路を車で走ると、新しい家々が並ぶ集落が目に入った。それは、ダム貯水後の最高水位より上の山の斜面に建てられた移住者たちの新しい村だった。「銀杏沱村」と呼ばれるこの村で、一軒の農家を訪ねた。女主人の譚さん(51歳)がいろいろと語ってくれた。

芝生のわきでトウガ
ラシを干す。ここで
は伝統的な生活習慣
が守られていた

 譚さんの家は、過去にさかのぼること三世代が、シ帰県茅坪鎮の長江のほとりに住んだ。三峡ダム建設のため、移住者となった彼女の四人家族は、97年に現在の銀杏沱村に移り住んだ。住宅は二階建てで、建築費は5万8000元(1元は約15円)。うち政府から2万5000元の補助金が出た。建築面積は160平方メートル。以前より少し狭くなったが、レンガ造りで、元の土壁・木造建築よりはるかに丈夫な造りとなった。

 以前は、耕地が4ムー(1ムーは約6・667アール)あったが、移住後はこれも少し狭くなった。譚さんは、新しい土地に落花生やインゲンマメ、みかんやユズなどを植えた。彼女の息子は、農閑期になるとオートバイで街へ出かけ、客を乗せて増収を図るのだそうだ。97年、当時の李鵬総理は三峡ダムプロジェクトを視察し、彼女の家も訪れた。当時はまだ新築されたばかりで、家具も揃っていなかったが、李鵬総理は「ゆっくりやればいい」と激励したという。

靴の有名メーカー・森達靴業公司がシ帰県に設立した工場。労働者はほとんどが現地の移住者たちだ
シ帰県歌舞団の踊り

 車が三峡ダム沿いの道路を走り、しばらくすると遠くの山の斜面に、移転したシ帰県の新県城が見えた。新県城の建設は92年に始まり、98年には街全体の移転が完了。国家の総投資額は24億元にのぼった。

 新県城の面積は約4平方キロ、住民は3万5000人。旧県城と比べて交通、エネルギー、通信などのインフラ整備が大幅に進められた。現代化されたニュータウン、新しい県城へと生まれ変わったのである。

 新県城の広々とした街路を歩くと、両側には美しい建物が並んでいた。環境保護や緑化運動に基づく街づくりをしており、かつてはあった煙突や電線、囲いの塀などはいっさい見られなかった。住民小区(団地)の建築デザインは、現代化の理念とこの土地の特色をともに生かしたものだった。たとえば、国家建設部(省庁にあたる)のデザイン賞を獲得した「橘園小区」では、マンションに地元特有の「馬頭牆」(屋根の傾斜に沿って階段の形をした切妻壁)や、黒い瓦と白壁を使うことで、地方色あふれる風情をつくり出していた。

 ある一軒の家にうかがった。ご主人の男性は、余さんという67歳の元労働者だった。彼はずっと旧県城に住んでいたが、定年退職してから新県城に造られた新居に引っ越したのである。新居はマンションの最上階にあり、建築面積は97・4平方メートル。以前の住居63・6平方メートルより少し広くなり、周辺の自然環境にも満足しているという。

昔ながらの背負いカ
ゴを背負った移住者

 余さんは、よくマンション階下の花園を散歩したり、自慢の二胡を引いたりしている。また、彼の奥さんはトウガラシみそを作るのが得意だ。三峡地区の人々はトウガラシが好物で、旧県城の街角では屋根や路上にトウガラシを並べ、日干しにする光景がよく見られた。余さんの奥さんのトウガラシは今、住民小区の芝生のわきで日干しにされている。

 余さん夫婦ばかりではなく、多くの人々が旧県城の生活習慣を守っていた。たとえば野菜市場では、伝統的な手作りの豆乳が売られていた。また、ショーウインドーが光り輝く商店街では、昔ながらの背負いカゴ(赤ちゃんや荷物を背負うカゴ)を活用している人たちを見かけた。

シ帰県九エン渓での
ラフティングが観光
客を引き付けている

 新県城の教育機関としては、小学校三校と中学校二校、高校三校があった。そのうちの小学校の一つは、中国人民解放軍の香港駐在部隊の義捐金で建てられたものだ。移転後に新築されたので、校舎はみな広々とした明るい環境に生まれ変わった。

 住民移転計画は、全国の有名メーカーからの支援も受けていた。大企業の一部が、シ帰県に工場を設立するため続々と投資を行っているのだ。新県城の工業区には、軽工業や食品加工、化学工業、冶金、建築材料などの分野にわたる有名メーカーの工場が立ち並んでいた。こうした工場の進出により、地方税収が高まるばかりか、移住者たちの雇用も促進されている。

長江遊覧の途中、シ帰県に立ち寄った外国人観光客。

 歴史の上では、シ帰県はこれまでに6回の移転を余儀なくされた。70年代の長江葛洲ーモダムプロジェクトでは、旧県城の部分的な移転と、河辺にあった屈原の祠の移築が行われた。今回の三峡ダムプロジェクトのための移住計画は、シ帰県では最も徹底した最大規模の計画となった。三峡ダムと新県城の建設は、シ帰県の人々の生活様式や考え方に大きな影響を及ぼした。目まぐるしい生活の変化に適応できない移住者がいないわけではない。が、そこにはさらに多くの発展チャンスがあり、彼らは現代化への大きな未来を思い描くことができるのだ。

 旧県城の屈原の祠と牌坊は今年、新県城に移築されるのだという。人々はそれを、こうユーモラスに、親しみを込めて語っていた。

 「屈原先生も移住者の一人なんですよ!」