中国民俗学の父 鍾敬文をしのぶ

                   丘桓興

1996年12月、中国文化芸術界連合会の名誉委員の金盾賞を授与された鍾敬文

 今年1月10日、中国の民俗学者からも、外国の民俗学者からも「中国民俗学の父」と称えられてきた鍾敬文が、百歳の高齢で死去した。1月18日午前、北京の八宝山に、全国各地から、また日本やフランス、韓国からも千人を超す文化学術界の人々と教え子たちが集まり、彼の死を悼んだ。最後の告別に際して、鍾敬文の教えを受けた弟子たちは、声を殺して泣き、長い間跪いていた。(文中敬称略)

        中国民俗学の草分け

 鍾敬文は生前、彼が80年にわたってそのために奮闘してきた民俗学について語るとき、いつも「五四運動こそが私を育てた文化の乳母なのだ」と言っていた。

 1903年3月20日、彼は広東省海豊の公平鎮の小さな商家に生まれた。1919年、北京で五四運動が起こり、運動は全国に波及したが、郷里の師範学校の学生だった鍾敬文も、愛国運動の呼びかけに応えて、鎮での街頭デモに参加した。

鍾敬文を表敬訪問した日本の大阪国立民族博物館の君島久子・名誉教授(右から2人目)

 1920年には五四運動の新たな文化思潮の影響を受けて、北京大学に歌謡研究会が成立し、週刊誌『歌謡』が出版された。1922年、当時郷里で教員をしていた鍾敬文は、民間文学に興味を抱くようになり、民間に伝わる歌謡や民話を収集・整理し始め、それを『歌謡』に投稿した。1926年には、彼は広州の嶺南大学で仕事を始め、彼の最初の本である民話集『民間趣話』を北京で出版したのである。

 1927年、鍾敬文は中山大学の教授となった。ちょうどこのとき、北京大学の歌謡研究会と風俗調査会の顧頡剛教授や容肇祖教授らが中山大学にやってきて、中国南部における民俗学の学術活動が始まった。鍾敬文も彼らと協力して、中国で初めての民俗学会である中山大学民俗学会を成立させた。そして民俗学の講習会開催を積極的に提案し、週刊誌『民俗』や民俗学叢書を編集・出版し、風俗に関する物品の陳列室を開いた。このとき、鍾敬文は『民間文芸叢話』などの学術専門書を出版している。

 1928年、鍾敬文は浙江大学の教授に就任し、杭州の江紹原、ツヲ子匡らとともに民俗学会を成立させ、民俗学の出版物や叢書を出版し、民俗学の発展に寄与した。

 1936年、日本留学から帰った鍾敬文は、引き続き浙江省で民間文化・芸術の教育と研究に従事した。
 新中国が成立する前夜の1949年5月、鍾敬文は北京に移り、北京師範大学の教授に就任し、民間文学を講義した。翌年、彼は郭沫若らとともに中国民間文芸研究会を設立し、その副理事長になった。その後彼は、『民間文芸』や『民間文芸集刊』などの出版物を創刊したり、中国で初めてとなる民間文学の修士課程のクラスを開設し、学生を募集したりした。

 だが、良いことは長く続かない。1958年、彼は「右派」のレッテルを貼られ、教壇で講義する権利さえ剥奪されたのである。

北京の玉淵潭公
園で、習字の練
習をする鍾敬文

 1976年、「四人組」が打倒され、すでに73歳になっていた鍾敬文に、学術の第二の青春時代がめぐってきた。彼はすぐに顧頡剛や容肇祖ら七人の教授とともに提案書を提出し、1983年5月に、中国民俗学会が成立した。彼はその理事長になった。

 その後、彼に支援されて各地に相次いで民俗学会が成立し、民俗調査が始まり、学術講演が催され、民俗学の出版物が刊行された。多くの大学に民俗学のコースが開設され、民俗学を研究する人材が養成された。

 彼が主となって編纂した『民間文学概論』や『民俗学概論』は、権威ある教科書となった。また彼は、中国では初めての民俗学博士課程の指導教授となり、その学生を募集した。

 そして1998年12月に開かれた中国民俗学会において、鍾敬文は中国の特色を持つ民俗学派である「多民族の国の民俗学」を提起した。これは、彼の民俗学が理論的に体系化されたものである。

        日本留学で培われた友情


 鍾敬文は生涯、中日友好事業に熱心に取り組み、両国の文化交流に力を尽くした。

 彼は、民俗学の知識と理論をいっそう充実させるため、1934年から1936年まで、日本の早稲田大学文学部大学院に留学し、神話学、人類学の学者である西村真次教授に師事した。

 毎日彼は、九階建ての図書館にこもって本を読み、昼の食事は十銭の蕎麦で済ませ、節約した金を持って日曜日ごとに神田の本屋街に行き、古本を買った。

 日本での彼は、柳田国男、高木敏雄、折口信夫や欧州の民俗学者の本を熱心に読んだ。ある日、地震が起こり、外は大騒ぎになったのだが、彼はいっこうに気づかなかった。夜になって帰宅するとき、路上に電信柱が倒れているのを見て、帰宅した後、夫人にそのわけを尋ねてはじめて地震があったことを知ったという。

 日本に留学していた期間、彼は西村真次、松村武雄、松本信広といった民俗学界の人々はもちろんのこと、竹内好、増田渉、実藤恵秀といった文学界の人々とも友情で結ばれ、数々の心温まるエピソードを残した。


 例えば実藤恵秀とは、亡くなった日本の作家の慰霊祭で、実藤が中国の近代作家である蘇曼殊について鍾敬文が書いた詩を朗読したことが縁で友人となり、その後二人はずっと手紙のやりとりを続けた。戦後、実藤は、戦争中に日本が掠め取ってきた中国の文化財を返還すべきだと提唱し、彼が翻訳したある中国人留学生の『留日日記』の原本を自ら進んで中国に返還した。

 しかし、その翻訳本を出版する段になって、実藤の手元には校正用の原本がなかった。このため、彼は鍾敬文に手紙を書き、日記に書かれた一部の言葉をつきあわせてほしいと頼んだ。1985年に実藤は死去したが、その後も実藤の息子の遠と、鍾敬文の息子の少華が、父親たちの友情を引き継いで、友好交流を続けている。

 鍾敬文の人となりや民俗学における学術的成果によって、彼は日本の民俗学者たちからの尊敬をかち得た。1980年、大林太良、野村純一、伊藤清司といった著名な学者によって構成される日本口承文芸学会訪中団が北京にやってきた。これは、中国の改革・開放政策が始まったあと、最初にやってきた日本の民俗学者たちの一行であった。

 ある日の昼食は、訪中団の皆が待ち望んでいた北京ダックだった。北京ダックがテーブルに並べられたとき、訪中団のメンバーは、鍾敬文がまだ健在だというニュースを聞いた。みんな箸を放り出して、鍾敬文に会いに行こう、ということになった。おいしい北京ダックを食べることなど、鍾敬文に会うことに比べれば、たいしたことではない。そこでみんな、お腹をすかしたまま鍾敬文を表敬訪問したのである。

息子の少華とひ孫と
ともに過ごす鍾敬文

 それからは「中国に行って鍾敬文に会おう」(村松弥一の言葉)というのが、中国を訪問する日本の学者の共通した願いとなった。また、加藤千代、馬場英子、桜井竜彦、辻雄二、中原律子、千野明日香、高木立子といった学者が次々に鍾敬文のもとにやってきて、留学生となったり、訪問学者となったりした。彼らは帰国後、それぞれの大学や学科で責任ある仕事を担当し、有名な学者となった。また、今度は中国からの留学生を指導した。名古屋大学大学院の桜井竜彦教授などは、中国から来た多くの博士課程や修士課程の学生の指導を担当した。

 一年ほど前に鍾敬文は、中日の留学生たちを回顧しながら私にこう言ったものだ。「中日の文化交流の中で、留学生ほど長期にわたって役割を果たすものはないなあ」。

       花を咲かせる土になろう

 鍾敬文は徳望が高く、人々に尊敬されていた。

 彼は、民俗学の畑を苦労して耕して来た。著述も非常に多い。しかも豊富な資料を蓄積していて、それをまとめて発表する計画だった。1930年代に早くも彼は、『女カ考』を書こうと考えていた。女カは中国古代の伝説上の女帝で、彼はこの古代神話から中国の原始社会史を考察しようとしていたのだ。彼はこのために一箱もの資料を集めていた。しかし残念なことに、その後の戦火と動乱のため、彼はずっとそれを書くことができなかった。

 1980年代以後、彼は中国民俗学会と中国民間文芸家協会の指導者となり、中国の民間文化事業発展のために、さまざまな計画を立てなければならなかった。多くの友人たちは彼に、何とか時間を作って、自分の著作を執筆するよう勧めた。しかし彼はきまってこう言うのだった。「いま、国家が民間文学というこの学問を救おうとしている。私はまず自分の精力をここに注がなければならない。自分個人の著作ができるかどうかなど、どうでもいいことだ」

 また「私は花を咲かせる土になりたい。必ずしも自分の花を咲かせる必要はない」「われわれは学術が春の御園のように花々が咲き乱れるのを見たいと望んでいるのであって、一枝だけの赤い杏の花が美しく咲くのを見たいとは思わないのだ」とも言っていた。

 民俗学の人材を育てるために、鍾敬文は自ら兵士たちの先頭に立って、力の限り働き、知恵を絞った。1979年の夏休み、教育部は全国各地から60余人の大学の教員を集め、北京師範大学で民間文学の授業の研修を行った。

 ある日、鍾敬文は午前中ずっと講義し、午後もずっと続けて講義した。ちょうど真夏の暑い盛りで、彼が疲れて暑さに当たるのではないかと多くの人が心配し、休むように勧めた。しかし彼は「同志諸君がはるばる遠くからやってきたのは容易なことではない。こうして講義しても、必ずしもみんなの要求を満足させられるとは限らない」と言った。

 ある年には、学校側は彼がすでに高齢になったことを考慮して、指導する修士課程の学生数を減らしたが、彼は逆にもっと多くの修士課程の学生を受け持つよう要求した。そして99歳になった去年までずっと、12人の博士課程の学生と数人の訪問学者を受け持っていた。

 友人の一人が「そんなに高齢で、なお多くの学生を直接指導しているなんて、ギネスブックに申請できるよ」と冗談を言ったが、これを聞いた鍾敬文は「以前、ソ連には八十数歳で学生を指導していた教授がいて、本当にすごいと思われていた。いま、私のような高齢で、なお学生がいるというケースはおそらくないだろう」とややまじめに答えたものだ。この言葉の中に、彼の生真面目な性格と自信がにじみ出ている。

 鍾敬文は学生たちに対し非常に厳格であり、まじめであった。授業も、少しもゆるがせにせず、論文を批評したり修正したり、疑問に答えたりした。ある時など、教室のあるビルが停電し、エレベーターが停まってしまった。すると彼は階段を一歩一歩6階までのぼって、3時間余の授業を行った。この世を去る16日前に、鍾敬文は、卒業間じかの博士課程の学生3人を招き、彼らの卒業論文のテーマについて指導した。

 苑利は、鍾敬文の指導で博士課程を卒業した一人である。彼は恩師がいかに節操が高く、名利を求めなかったかについて、こんなエピソードを語っている。

 それは1997年のことであった。苑利は『20世紀中国民俗学経典』という叢書を編纂したいと考え、鍾敬文に編集主任になってほしいと頼んだ。しかし彼は、この計画には賛同したものの、編集主任となることは断った。「君にはすでに編集主任となる能力が備わっているのだから、君が自分でやるべきだ。何か問題が起こったら、私が君の後ろ盾になろう」と言ったのである。実際、その後、鍾敬文は終始、この八巻の叢書の出版にかかわり、 原稿の取捨選択や決定などの仕事を行った。それでも編集主任は苑利であった。

 鍾敬文は逝ってしまった。しかし彼の精神と学術は、いつまでも燃えつづける松明の火のように、自分自身を燃やしながら、人々を明るく照らし続けるだろう。(2002年4月号より)