漕いで漕いで大西洋

文・王浩 写真提供・孫海斌


 現地時間2001年12月2日午後7時7分(北京時間の3日午前9時7分)、一人の中国人と一人のデンマーク人が乗った一隻の手漕ぎボートが、ついにバルバドス島の美しい海岸に着いた。二人とも疲れきり、よろよろと岸に上がって歩き始めた。二人がまだ口を開かないうちに、迎えにきた人々がぐるりと二人を取り囲み、ずっと前から到着を待っていたデンマーク人のガールフレンドは、喜びのあまり彼をしっかりと抱きしめた。

 ボートは長さ七メートル、幅一・九メートルの「沿途号」。ボートを漕いできた中国人は孫海斌さん、デンマーク人はクリスチャン・ハブレヘッドさんである。ハブレヘッドさんは「黄思遠」という中国名を持っている。スペインのテネリフェ島をスタートし、57日間をかけ、大西洋を横断して、カリブ海に浮かぶこの島に到着したのだ。孫海斌さんは、手漕ぎボートで大西洋を横断した初めての中国人となった。

国の違いを乗り越えて

 長かった海上での体験を振り返るとき、二人には語り尽くせぬほどのさまざまな思いが浮かぶ。とくにハブレヘッドさんにとってはなおさらだ。最初にこの計画を思いついたときから、ついにそれが実現するまで、多くの曲折を経てきたからである。

 32歳のハブレヘッドさんは、小さいころから海上の冒険生活に憧れていた。3歳の時に、手漕ぎボートを海に漕ぎ出して冒険に行く計画を立てたこともある。

スタートを待つハブレヘッドさん(左)と孫海斌さん(右)

 16歳になると、幸い奨学金をもらい、英国のアトランティック大学へ留学できることになった。そこはインターナショナル・スクールで、さまざまな国から来た、異なる文化的背景を持つ留学生たちがここで勉強し、交流している。ここで彼は、中国文化に対して強い興味を抱いた。ところが、全校360人の学生の中で、中国の留学生は数えるほどしかいなかった。

 国際的な学校なのに、中国の留学生がほとんどいないというのはたいへん残念だと、彼は思った。中国政府がイギリスへ留学する学生に奨学金を提供していないことを知ったハブレヘッドさんは、アトランティック大学に留学したい中国の学生たちのために、自分の資金で援助しようと考えた。そうすることによって母校に報いようとしたのである。

 その後、ハブレヘッドさんは中国に留学した。そして香港のある会社の経営顧問になった。そこで友人から「ウォード・エバンズ大西洋横断手漕ぎボートレース」のことを聞いた。彼は強く惹かれた。このレースに参加すれば、中国の留学生を支援するための費用の一部を稼ぐことができる。そうすれば長年の夢を実現することができると考えた彼は、レースに参加することにした。

 この手漕ぎボートによる大西洋横断レースは、1997年に始まり、今回は2回目である。参加者は二人一組と定められているので、ハブレヘッドさんはパートナーに中国人を選ぶことにした。

 そして選ばれたのが、北京体育大学の孫さんだった。濃い眉に大きな目、容貌魁偉の孫さんは微笑みながらこう言うのだ。

 「僕は小さいころからスポーツが好きだった。大学に入る前に、兵役に就いた。ほかの人は6時に起きるが、僕は4時半に起き、花壇の周りを走った。みんなに、少しおかしいのでは、といわれた」

 後に孫さんは、トライアスロンの練習を始めた。さらに「セブンスター国際クロスカントリー」にも参加し、良い成績を収めた。

 だからハブレヘッドさんがレースの計画を持ってきたとき、孫さんはためらわずにこれを受け入れたのだった。

海上で風雨と闘う

 2001年10月7日、「大西洋横断手漕ぎボートレース」が始まった。30数隻のボートが一斉にテネリフェ島をスタートした。孫さんは当時をこう回顧する。

 「ピストルが鳴ると、みな争って沖に向かって漕ぎ始めた。海上はとてもにぎやかだった。しかし四時間すると、果てしない海の上に一隻のボートも見えなくなり、自分たちの乗ったボートと海だけになった。夜になると、漆黒の海には、自分のボートの羅針盤を照らす灯の光しかなかった。耳に響いてくるのは、舷側を叩く波の音ばかり。言いようもない恐怖感にとらわれた」

 ボートを漕ぎ始めて2日目から、二人とも船酔いにかかった。「全身がだるくて、嘔吐は止まらない。何も食べられなかった。船室に横になってもなかなか眠れない。しかし、停まらずに、ボートを漕いで進んで行かなければならない。体力を補う必要があるので、しかたなくカロリーの高い飴を舐めるほかなかった。船酔いは2日間も続いたが、だんだんと治っていった」

 体力の消耗を防ぐため、二人は二時間ごとに交代でボートを漕いだ。一人がボートを漕いでいるとき、もう一人が休む。

 海上の天気は、まるで子供の表情のように目まぐるしく変わる。3日目の夜、はじめての暴風雨に遭った。風雨とともに高さ5、6メートルの大波が次々と襲ってきた。ボートは激しく揺れた。孫さんは全身びしょ濡れになり、雨水は身体に沿って流れ落ちた。しかし大雨を冒して懸命に漕ぎ進んだ。

 「船室に入って雨を避け、少し休もう、とハブレヘッドさんに言われたが、レースが始まったばかりですぐ休憩したら、これからどうなるだろう。そう思って、私は漕ぎ続けた。しかし雨だけでなく大風も吹き、私は全身に寒気を感じた。病気になってはいけないと思って、結局、船室に戻った。横になって、雨と風の音を聞きながら、二人は知らず知らずに眠りに落ちた」

 大海原にも穏やかなときもある。あるときは、6日間も雲ひとつない晴天が続き、風はそよとも吹かなかった。海は静かで、海面に映る自分の影がはっきりと見えるほどだった。

 だが、晴天は必ずしも良いことではなかった。ボートの上は遮蔽物がないので、昼間は、太陽にじりじりと照りつけられた。二人とも全身から汗が噴出し、玉の汗が体の上を流れ落ちていくのがはっきりわかった。一日の体力の消耗はきわめて大きかった。船室に入って休もうとしても、中の気温は摂氏40度以上に達し、まるで蒸し風呂だった。

 長い時間、海水に浸っているうえ、ボートを漕ぐときの摩擦で、二人の尻の皮膚はただれてしまった。ハブレヘッドさんの症状はとくにひどく、尻がただれて肉が落ち、二つの穴があき、外から中の赤い肉が見えていた。ボートを漕ぐとき二人は、骨身にしみるほどの痛さに耐えなければならなかった。

 「座席に羊毛の座布団を敷いたり、薬を塗ったり、考えつく方法はほとんどみなやってみた。しかし役には立たなかった。寝るときは、上を向いて寝ることができず、腹ばいになって寝るほかなかった」と孫さんはいう。

 こうした苦痛をこらえながら、二人はゴールに到着した。しかしバルバドスの気候はたいへん暑く、傷口の感染を防ぐため、二人ともスカートを穿いたのだった。

「合作会更好」

 「沿途号」の船室には、「合作会更好」と一行の中国語が書かれている。「協力すれば、更にうまくいく」という意味だ。「大西洋を成功に横断するためには互いの協力が大切だ、とこの句は我々を戒めているのです」と孫さんは言った。

 確かに、多くのボートが、選手同士の協力がうまくいかなかったため、途中で棄権せざるを得なかった。国が違う孫さんとハブレヘッドさんの場合は、果たしてどうだったのだろう。

 この50数日の間に、二人の間にも衝突はあった。とくに長い間、極度の疲労と孤独な状況に置かれると、人の精神は過度の緊張状態に陥り、ささいなことで衝突や争いが起こる。

レース中の孫さん

 例えば、ハブレヘッドさんは最初、孫さんの話し方や口調に違和感を強く感じ、よく腹を立てた。「オイ、それを持ってこい」とか、「これをやれ」とか、「まるで命令みたいだ」とハブレヘッドさんは思った。「あいつは人をまったく尊重していない」

 しかし付き合っているうちに、孫さんにはそんな考えがまったくないことが分かって、納得がいった。

 孫さんも相手を誤解したことがあった。ある日、孫さんがボートの底をきれいにするため海に入ろうとすると、「鮫に気をつけろ」とハブレヘッドさんが言った。「鮫がいることはわかっているのに、なぜそんなことを言うのか」と孫さんは思った。「ただでさえ緊張しているのに、そんなことを言われればもっと怖くなってしまうじゃないか」

 幸いだったのは、二人とも、喧嘩したあとで必ず、すぐに相手と話し合って意思の疎通をはかり、互いに理解し合えたことである。

 果てしない大海原に浮かんだ木の葉のような小船の上では、寂しさも、克服しなければならない困難の一つだった。

 「レースが始まってから4時間後には一隻のボートも見えなくなり、54日間経ってから初めてほかの船を見た」という。「そのとき、二人とも疲れ切っていた。大会組織委員会の救助船が我々のボートのそばを走ったのだ。我々は興奮した。50数日間以来はじめて人間を見たのだから。二人とも大声で救助船に向かって叫び声を上げた。ずっと溜まっていた話を全部ぶちまけたいと思ったのだ」。この時のことを思い出すと、孫さんはいまだに感情を抑えられない。

 長い航海の間、唯一、ボートの二人と外界とをつなぐものは、ただ一台の衛星電話だけだった。「我々は一定の間隔を置いて、自分の家族と通話をし、そのときの状況を伝えた。通話が終わるたびに、ずいぶん慰められた」と孫さんはいう。しかし、大会組織委員会は、各ボートに10時間の通話料しか提供しなかったので、二人は数日間に一回しか電話がかけられなかった。

 孫さんは誕生日を海の上で迎えた。その前の晩、ハブレヘッドさんは意味ありげにこう言った。「オイ、明日は君の誕生日だろ。朝、目が覚めたらきっとイルカに会えるよ」

 疲労困憊していた孫さんは気に留めなかった。だが、次の朝、目がさめると、なんと目の前に、イルカがあるではないか。ハブレヘッドさんがプラスチック製のイルカの形をしたキーホルダーを手に持って言ったのだ。「誕生日おめでとう」

 「イルカに会える」と言ったのはこのイルカのことだった。孫さんは楽しそうに笑い、心の中を熱いものが流れた。後でわかったことだが、そのプレゼントは出発前に、ハブレヘッドさんがガールフレンドといっしょに選んだものだった。不思議なことに、その日、二人は、幸運にも鯨の群れを見たのだった。彼らは心から興奮した。

 ハブレヘッドさんは中国語がかなりうまいので、船上での二人の会話は、主に中国語だった。二人はよく海の探検家の話をした。

 「彼らに比べると、私たちの状況はずっと良い。我々には海水を淡水化する機械があるが、過去の探検家たちは飲み水をもっぱら雨水に頼らなければならなかったからだ。我々の食べる食事も、栄養士たちがとくに作ったもので、必要な栄養があり、しかも毎食、違う食品が用意されている。だから、我々は彼らよりずっと幸せというべきだ」

 長い海上生活の後、二人は本当の親友になった。

ラスト・スパート

 スタート前に、大会組織委員会の人が二人に、ゴールまで何日ぐらいを見込んでいるか尋ねた。そのときハブレヘッドさんは躊躇することなく「57日間」と答えた。その後、彼は孫さんにその理由を告げた。それは彼のガールフレンドの誕生日が12月4日で、スタートの日からちょうど58日後に当たる。だからその前日に到着したいのだと。

 それが二人にとって、時間と競争する原動力となった。57日間以内に到着できるように、二人は時速2海里(1海里は1852メートル)で漕ぐ計画を立てた。そしてこれよりスピードが遅くなったら、自分を励まして速度を上げたのだ。

 56日目、美しいバルバドス島が遥かに見えてきた。GPS(全地球測位システム)によって、彼らのボートは八位につけており、後続のボートは九海里遅れていることがわかった。二人は大いに喜んだ。ハブレヘッドさんは「体をきれいにしてからゴールインしなければならない」と言い出し、二人は海に入って身体を洗った。だが二人が喜びに浸っているとき、後続のボートがあと5海里に迫っていると、大会組織委員会が知らせてきた。びっくりした二人は、冷や汗をかいてさっそくボートにはい上がり、懸命に漕いだ。

 「中国では『八』という数字は縁起がいいので、八位を守ろう。後ろから来るボートに追い越されてはならない」とハブレヘッドさんは言い、ついに二人のボートはゴールインした。ガールフレンドの誕生日を陸上で祝おうというハブレヘッドさんの願いはついに叶ったのだった。

 陸に上がった二人は、なかなか適応できなくなっていた。57日間の海上生活のせいで、二人は正常に歩くことができなくなっていた。「我々は酔っ払いのように、ふらふら、よろよろとしていた。2日経ってもまだ、ボートに乗っているような感じだった」とハブレヘッドさんは言っている。(2002年10月号より)