極限へのチャレンジ
オートバイ選手の陳建国さん

韓一川

   オートバイを使って行われる各種の競技「モーターサイクル・スポーツ」が、中国でも人気を集めている。多くの若者がこのスポーツに夢中になっており、激しいレースに身を置いて、その刺激を楽しんでいる。第3回国際モーターサイクル観光祭が今年6月、寧夏回族自治区の銀川市で行われ、タクラマカン砂漠をオートバイで単独走破した伝奇的な人物――陳建国さんの偉業を見つめた。  

「命の限界まで挑戦する」と陳建国さん

 銀川市内から南へ約60キロの地点に、「中国西部の大峡谷」と呼ばれている場所がある。流水に浸食されてつくられた溝で、それは100キロあまりもくねくねと続いている。溝の幅は最大で60メートル以上。地元の人たちは、その大峡谷を「水洞溝」と呼んでいる。

 考証によると、水洞溝は中国の旧石器時代末期の遺跡の一つで、5万年もの歴史をほこる。今年6月17日、オートバイ選手・陳建国さんの挑戦により、静寂に包まれていたこの古代文明の地が、ふたたび注目を集めることになった。

 午前9時前、各地から集まってきた人々が、陳さんのジャンプ現場を取り囲んでいた。十数メートル下の底に降り、見守っている人もいた。手前の崖のなだらかな斜面には、木製の助走台がしっかりと据えつけられていた。長さは約8メートル。まもなく彼が飛び立つところだ。

 しばらくすると、バリバリという耳をつんざくエンジン音が鳴り響き、人々の騒ぎを静めた。カーブから、オートバイがうなりを上げてやってきたのだ。へばりつくかのように車体と一体化した彼は、砂塵を巻き上げて突進した。そして、直線コースに入った途端、スピードを上げて一気に助走台をかけ抜けた。人々が立ちすくむ中、ビュンという鋭い音とともにオートバイが空高く舞い上がった。人とオートバイが美しい弧を描き、やがて「バン」という大きな音とともに、溝の向こう側へと着地した。それは激しく揺れた後、余力でさらにかけ抜けていった。

 まさに一瞬の出来事だった。あっけにとられて、言葉の出ない人もいた。しかし間もなく、目の前で起こったことがハッキリとわかった――陳建国さんが成功したのだ。歓喜に沸く人々が取り囲み、このヒーローを何度も何度も胴上げした。測定の結果、陳さんのジャンプは32メートルにも達していた。「空に止まったあの瞬間、私の意識も止まったのです。本当にすばらしい感覚でした」と陳さんは振り返る。

 1968年、江蘇省南京市に生まれた。中肉中背、真っ黒に日焼けした肌は、見るからにたくましそうだ。プロの選手になって久しいが、初めてオートバイに触れたのは14歳の時だった。当時、80年代の初頭は、オートバイを個人で持つのは珍しかった。そんな時、偶然にも友人の家でオートバイを目にしたのである。「一度でいいから乗ってみたい」と、その友人が開いていた店で一週間のアルバイトをした。結局、20分ほどしか乗せてもらえなかったが、一生忘れられない思い出となった。「乗った瞬間に、オートバイに惹かれたのです。スピードを出すと肌で風を感じて、なんともいえない心地よさだった」

 その後、オートバイを初めて買ったのが84年。その時のことを、彼は今でもハッキリと覚えているという。小遣いを倹約し、クラスメートとコツコツ貯めた1900元でようやく買ったものだった。

 「親に知られたらたいへんだと思い、僕たちはオートバイを交代で家に持ち帰りました。もし尋ねられたら、それは相手が買ったもので、自分は借りているだけだと答える約束をしたのです」。その時から、オートバイに夢中になった。「これに乗ると、言い表せないほどの快感がある。オートバイは、僕の生活には欠かせないものなのです」と、彼は白い歯をこぼす。

中国の大峡谷のジャンプに成功した

 平凡な生活には満足しない性格だ。オートバイの選手になると同時に、「他人ができないことをやる」という志を立てた。99年には、「死の海」と呼ばれるタクラマカン砂漠の走破を自らに課した。「これまでにここを走破したのは、ジープに乗った集団だった。僕は歴史をぬりかえる。単独オートバイで走破するのだ」

 同年10月、通信設備やナビゲーター、後援組織も何もない環境で、いよいよ出発。それは初めての極限へのチャレンジだった。もしも成功しなければ、命が危険にさらされる。

 60リットルのガソリンを入れたドラム缶3本と水、ビスケットだけを携えた。「携帯品を含めれば、オートバイは150キロを超えていた。砂漠の中は流砂が多い。もしもエンコや転倒をしても、一人では起こすことすら難しかった。体力と技術のほどが問われたのです」

 一番つらかったのは、激しい気候の変化であった。昼夜の温度差がきわめて激しく、正午の最高気温は摂氏40度以上、夜になると零下に下がった。通気性のないレーンコートをはおり、体からの水分蒸発を抑えたが、それにしてもつらい体験であった。正午になるとレーンコートの内側は、まるでストーブ。全身が焼かれるように暑くなり、激しい痛みとたたかった。夜、寝る時は、地面がまるで氷のように冷たくなって、寝袋が何の役にも立たなくなった。

 陳さんは言う。「本当に苦しかった。睡眠時間は4、5時間しかとれず、それ以外はひたすら走った。暑さ寒さに耐え忍びながら、とにかく走りました」

 5日目、大変なことが起こった。砂嵐に襲われたのだ。ろくに準備もしなかったので、砂塵が吹き荒れると、1時間足らずで車輪の半分が砂の中に沈んでしまった。「視界はほとんどありませんでした。手を差し出しても指が見えない。風が止まなければ、きっと死ぬだろうと思いました」。オートバイに寄りかかり、風を背にして、強風が収まるまでじっとしていた。幸い、風は数時間後にだんだんと収まってきた。こうして難は逃れたが、丸一日をムダにした。

 もともと計画は5日間だったが、強風などへの予測が甘く、予定通りにいかなくなった。陳さんの自信は揺らいだ。「未曽有の恐怖を感じました。進むか戻るか、決心がつきかねていた。どちらにしても同じだと思い、『もう戻れない、進むしかない』と決意したのです」

 陳さんは進み続けた。しかし、さらなる恐怖が襲った。7日目に、持ってきた水がカラになってしまったのである。太陽がじりじりと照りつけていた。体の水分が干上がっていくのを感じ、たいへんな恐怖を覚えた。

 「目にしたのは黄砂ばかり。後どのくらい走るのか、まったく見当もつかなかった。水はとても重要なものだったのです」。水を切らしたため、のどや口がはれ上がり、食べ物が飲み込めなくなってしまった。しかし、歯をくいしばり、スピードを上げて進むほかなかった。

 9日目、ついに転機が訪れた。走行中に廃棄された車のタイヤを見つけたのである。彼は狂喜乱舞した。「ようやく人の跡を見つけたぞ! もうすぐタクラマカンをぬけ出せる」。その夜、ある町に到着した。オートバイから降り、よろよろしながらあるレストランの扉をたたいた。そして店主に何か食べ物をくださいと手まねして見せると、店主は棚から一本の酒瓶を取り出して、彼に渡した。ボロボロの衣服でほこりにまみれ、よろめいている陳さんを見て、酔っぱらいだと思ったのである。

 こうして9日間をへて、陳建国さんは「死の海」であるタクラマカン砂漠を走破、ギネスブックに新記録を打ち立てた。彼はその後も挑戦を続け、2000年、2001年には二度にわたり、オートバイの登山隊によるチョモランマ峰(8848メートル)登頂に挑んだ。最高到達点は6116メートル。二輪登山の世界記録をまたも塗り替えたのである。

 彼は言う。「オートバイ登山は砂漠の走破とは、まったく異なりましたね。極限へのチャレンジは、もはや生活の重要な一部分であり、原動力でもある。私はオートバイを通じて、命の限界まで挑戦しつづけるつもりです」(2002年11月号より)