日本に渡った楊貴妃が甦る

                王海燕

呉汝俊さん演じる楊貴妃(写真・newsphoto)

 楊貴妃、西施、貂嬋、王昭君は、中国古代の四大美人だ。

 楊貴妃は、美しく歌舞に秀で、唐の玄宗皇帝と永遠の愛を誓い合っていた。しかし西暦755年、安禄山が反乱を起こした時に首謀者と疑われ、馬嵬坡で自殺に追い込まれた。その後の玄宗は、孤独と思い出の中で余生を送った。二人の故事は民間に広く伝えられていて、唐の大詩人・白居易は、それを題材にした今でも語り継がれる長詩『長恨歌』を残した。

 日本には、楊貴妃が馬嵬坡では死なず、生き延びて日本に渡ったという伝説が残っている。そのため、日本に楊貴妃の墓と寺院があるだけでなく、彼女の日本上陸を記念した「唐渡口」という地名まである。この伝説を題材に、2001年、日本の興行会社、北京市文化局、北方崑劇劇院などは共同で、大型崑劇『貴妃東渡』を制作した。この作品には、楊貴妃が馬嵬坡で遣唐使・阿倍仲麻呂に救われ、日本にたどり着いた後の話題も描かれている。

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 舞台の幕が開くと、美しいメロディーが流れ、華麗で立派な宮殿が登場した。各国の使節は、それぞれ違った衣装を身につけ、唐の玄宗が執り行った中秋節の祭典に参加していた。劇には、様々なエピソードが挟まれ、シーンには喜びと熱気が満ちていた。しばらくすると劇中の楊貴妃は、踊り子たちの先頭に立って愛しの玄宗に自作の『霓裳羽衣舞』を舞って見せ、二人の愛情の深さは、祭典に参加していた遣唐使・阿倍仲麻呂の心を打った。

 現代的な舞台美術、豪華な衣装、優美な伴奏と踊りは、舞台全体に美しい彩りと力強さを与えた。中国の伝統劇・崑劇には、600年以上の歴史がある。しかし『貴妃東渡』の演出は、中国の伝統劇でお決まりの、布、机、椅子という簡単な舞台道具、規格通りの衣装をつけた役者、ドラや太鼓と胡弓の簡単な伴奏という形式とは明らかに異なっている。

 それ以外にも、日本の音楽と舞踏の要素を取り入れている。例えば、阿倍仲麻呂は笛で日本音楽を奏で、花見の席上、日本の民間伝統舞踏を踊るといった具合だ。

 感動的な物語と、中日の二つの文化の融合により、同劇はさらに魅力的なものとなった。

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 楊貴妃は、日本在住の中国人芸術家・呉汝俊さんが演じた。その華麗で美しい演技は、人びとに強いインパクトを与えた。これは、彼が女形として主役を張った初の舞台だった。

 呉さんは、中国江蘇省の南京市に生まれた。もともと中国戯曲学院で京胡(京劇の伴奏に使う胡弓の一種)を学び、中国京劇院で国家一級演奏家として活躍していた。ある偶然で、彼は自分の女形の歌唱能力に気付き、トレーニングを受けるようになった。そして、女形として数回舞台に立ったところ、専門家からも好評を得るようになった。

 1998年、陶山昭子さんと結婚。翌年日本に移住し、仕事の拠点も日本に移した。その後十数年間、日本各地で京胡独奏会や京劇音楽会を開き、多くの熱烈なファンを獲得した。

 呉さんは、『貴妃東渡』のプランナーであり、企画提案者でもある。芸術家として日本に中国文化を伝えると同時に、中日両国の人びとの友情に感動させられている。特に、日本で楊貴妃の墓と寺院を見たあと、この伝説は、両国の人びとの感情のきずなであり、良質の創作テーマになると感じた。

 彼はまた、中国の伝統的戯曲芸術と、日本や欧米の先進舞台芸術、制作手法、音楽を融合させ、新しい東洋の歌劇を作り出したいと考えている。崑劇は、中国の歴史ある劇で、京劇の形成と発展に重要な影響を与えた。崑劇の歌には、多くの民歌、民謡などの要素が取り入れられていて、そのメロディーは変化に富み、自由で、他の音楽とも融合しやすい。

稽古の合間に、呉汝俊さんの母親と夫人が衣装を直す(写真・王海燕)

 呉さんの努力のもと、中日双方は共同で400万元以上を投資し、著名な作曲家・葉小綱さんをはじめ、演劇界、異業種、各地の優秀な人材を招集し、多種の現代的な表現手段を駆使して大型崑劇『貴妃東渡』を創作した。北方崑劇劇院の副院長・楊鳳一さんは、「『貴妃東渡』は大きな反響を呼んだ。中国の各界で好感を勝ち取っただけでなく、より多くの日本人に、中国にこんな素敵な崑劇があることを知ってもらえた」と話す。

 2001年8月、同劇は福岡、大阪、北九州、名古屋、東京など、日本の15都市で16回公演し、好評を得た。中には、劇団とともに各都市を回ったファンもいたほどだった。

 ある日本のファンは、「感動的でした。何度も観ましたが、毎回涙を流してしまった」という。2002年6月から8月、『貴妃東渡』は中日国交正常化30周年の活動の一つとして、中国と日本で再度巡演された。

 北京公演の時には、呉さんのファンは、公演だけのために北京にやって来た。呉さんはこう言う。「ファンの皆さんが私を支持してくれるのは、私の芸術を気に入ってくれているからであり、私の芸術の起源である中国を気に入ってくれていることを意味する。このことは、私が中国の芸術家であること、表現しているものが中国の芸術であることを思い起こさせる。そして、中日文化の芸術交流のために、やらなければいけないことがたくさんあるとの思いを強くする」(2002年11月号より)