日中国交正常化30周年記念

指導者の言葉に見るこれからの中日友好

馮昭奎
   中日国交正常化30周年の今年も、残すところあとわずかとなった。われわれは歴史が教える貴重な経験を、しっかりと心に刻むべきである。新世紀の中日関係をいかに正しく発展させるかを考えるとき、3世代にわたる中国の指導者たち――毛沢東、周恩来、ケ小平、江沢民の四氏が中日関係について述べた言葉は、いっそう意味深く響いてくる。中国社会科学院の馮昭奎氏は、その言葉をこんにちの中日関係と結びつけ、両国関係のこれからに新しい思考と解釈を加えている。(編集部)  

毛沢東――「二つの民族は平等になった」

 毛沢東主席は1955年10月15日、日本の国会議員訪中団と会見したとき、このように語った。「われわれ二つの民族は、いまや平等になった。それは二つの偉大な民族である」(注1)

 この言葉は、二千年にわたる中日両国の関係史を総括したものだ。両国が往来を始めて以来、中日関係は三つの段階を経てきた。その第一の段階は、紀元57年に倭(日本)の奴の国王が後漢に使節を派遣したころから、1868年の明治維新までの関係を指す。この時期の中日関係の特徴は「強弱型」(中国は強く、日本は弱い)であり、友好往来は両国関係の基調であった。当時、中国は東方文明の中心地であり、日本は中国文明を積極的に吸収していた。

1963年10月1日の国慶節に、毛沢東主席は天安門城楼で日本の石橋湛山・元首相夫妻と会見した(『人民画報』提供)

 第二の段階は、明治維新から、1972年の中日国交正常化までの関係だ。中日甲午戦争(「日清戦争」)や日本の中国侵略戦争が起こった不幸な一時期でもあった。この時期の特徴は「弱強型」(中国は弱く、日本は強い)であるといえよう。日本はアジアで唯一の工業国となったが、中国はまだ半封建的・半植民地的な国家であった。49年(新中国成立)になって初めて、中国は「立ち上がった」のである。そして両国は長い間、「戦争状態」にあった。

 72年、両国はついに国交正常化を果たした。両国の実力から見れば、中日関係はようやく二千年来の「強弱型」と「弱強型」から、第三段階の「強強型」へと発展してきた。しかし、両国はいまなお発展の過程にあるし、中国の経済力はいまなお日本と大きな差がある。中日関係が成熟した「強強型」になるまでには、まだ先は長いと思われる。

 にもかかわらず中日関係は、この二千年来で初めての「強強型」の段階を迎えている。中日両国は国民の心理や外交のあり方を、いずれも調整する必要があるだろう。とくに日本は百年以上にわたり、アジアの先頭を走ってきた。そして「まわりはすべて弱国か小国」と考えており、いまも中国より大きな経済力をほこる。それだけに日本は、工業化と近代化を進めるアジアの現実を受け入れ、日増しに発展する周辺諸国と平等につきあうためにも、感情的かつ理性的に心理状態を整える必要があろう。

 しかし人口が多く、領土が広く、ますます実力をつける中国を受け入れるのは、日本にとってはなかなか難しいだろう。したがって、中日両国が実際に強くなるまで、また両国が第二次大戦後のフランスとドイツのような成熟した「強強型」の関係になるまで、両国はこれからも厳しい局面に立ち向かわなければならない。両国関係の基調は、協力と摩擦がともに存在する状態である。そのため、両国の国民とアジア地域に大きな利益をもたらす相互協力にあっては、いかに影響を与えず、破滅をさせず、その摩擦を抑えられるかが、これからの両国外交の重要課題となるだろう。

周恩来――「工業化こそが平和共存、共栄を」

 周恩来総理は1954年10月11日、日本のある代表団と会見したとき、こう言った。「みなさんは中日両国がともに工業化を果たせば、衝突が起こるのではないか?と疑っておられるようですが、状況は絶えず変化しています。もしも永遠に工業国の日本、農業国の中国だとしたら、その関係はうまくいきません。……中日両国がともに工業化を果たしてこそ、平和共存、共存共栄が実現できるのです」(注2)

1959年10月、周恩来総理は自民党顧問・松村謙三氏ら一行と会見した

 周恩来総理のこの言葉は、日本の明治維新以後、百年間の中日関係史を総括したものだ。明治維新以後、日本はひたすら工業化の道を歩んだ。そして第二次大戦後は、経済建設に力を注いだ。50〜60年代の高度経済成長期において、日本は重化学工業化を成しとげた。83年、日本の機械工業の輸出額は、アメリカを追い越して世界のトップに躍り出た。日本は名実ともに「世界の工場」になったのだ。

 だが、90年代初めにバブル経済が崩壊し、以来、日本の経済は10年以上にわたる低迷期に陥った。国内需要が低迷し、生産コストが高すぎたため、日本の製造業は生産活動を徐々に海外へと移した。国内工場の一部が合併したり、閉鎖したりして、いわゆる「産業空洞化」の問題が起きたのである。

 ところが、日本にとって「失われた10年」である九〇年代は、改革・開放を進める中国にとっては「収穫の十年」であった。「改革」と「外資」という内外からの二重の推進力によって、その工業化が急速に進められた。いまや世界のあちこちに、「メード・イン・チャイナ」の商品があふれている。こうして日本など一部の国の人たちは、中国が「世界の工場」になったと驚き、そのめざましい経済発展により自分たちの仕事も危うくなると心配しはじめた。なかには中国の工業化と「中国脅威論」を結びつける人まで出てきたのである。

 それはまさしく周恩来総理が五十年前に注目し、予見していた問題だった。「中日両国がともに工業化を果たせば、衝突が起こるのではないか?」。だが、もしも両国の工業化の関係や、「衝突」が起こり得る状況を具体的に分析してみれば、周恩来総理が語った言葉が、なんという卓識であったかがわかる――「中日両国がともに工業化を果たしてこそ、平和共存、共存共栄が実現できる」。

 経済のグローバル化時代は、企業が世界へ進出する時代でもある。中国における工業化の発展は、日本などの先進国の製造業に対して、新しい発展のチャンスと舞台を提供している。

 また、中国などの発展途上国が日本に安い製品を輸出すれば、日本の消費者に利益を与えるだけでなく、日本の「構造改革」を促進させる作用も及ぼす。つまりは日本の手助けにもなる。日本は物価が高いので、物価の安い「中国の価格」との衝突は、日本の「コスト高、物価高」という経済構造を変えるのに有利なのである。

 もしも中日両国の工業化が「衝突」したとしても、それは主に日本の「落日産業」(下降産業)の部分で起こるにちがいない。こうした「衝突」は、日本において一時的、局部的な「陣痛」を引き起こすかもしれない。しかし結局は、日本国内の経営部門を成長させ、産業構造を高度化させ、高技術、高附加価値をもつ機械や部品などの「世界の供給基地」という地位を固めるであろう。

 中国は「改革・開放」政策を堅持するが、日本もアジアに対して開放し、中国などアジア各国との協力を強化すれば、周恩来総理が言った中日間の「平和共存、共存共栄」はきっと実現できるだろう。

ケ小平――「友好はどんな問題よりも重要」

 ケ小平氏(当時・中国共産党中央軍事委員会主席)は84年に日本の中曽根康弘首相と会見したとき、こう言った。「(中日両国は)永遠に友好的につきあっていかなければなりません。それは、われわれの間にあるどんな問題よりも重要です」(注3)

1978年10月26日、日本訪問中のケ小平副総理一行は、新幹線で古都・京都を訪ねた(『人民画報』提供)

 この言葉は、中日国交正常化からの両国の関係史を総括している。72年に国交が正常化して以来、両国の政治や経済、文化などの交流はみるみるうちに拡大した。しかしこの30年間は、両国における問題も少なくなかった。とりわけ歴史問題への対応により、両国間で多くの摩擦が起こった。ネギ、生シイタケ、畳表の農産物三品目をめぐる中日貿易摩擦や、瀋陽の日本総領事館事件などのさまざまな問題である。中日両国は、その対応に追われるとともに、自国の国民感情も考えなければならず、感情と政策、情緒と理性のはざまで、バランスを保たなければならなかった。

 外交政策を決める者たちは「中日間の『問題』は具体的だが、『友好』はある種、抽象的なものだ」という。しかも絶えず発生する問題は、「両国にとって『問題』と『友好』のどちらが重要なのか」深く考えようとする人たちにも、影響を与えかねない。

 しかし、国交正常化から30年の歴史は、ケ小平氏のあの言葉の正しさを証明した。「(両国は)永遠に友好的につきあっていかなければなりません。それは、われわれの間にあるどんな問題よりも重要です」

 その理由はどこにあるか? 第一に、中日関係、とくに経済分野における中日関係の発展は、経済のグローバル化を実現させた。経済のグローバル化とは、先進的な生産力が国境を越えて発展することの現れだ。中国は、中日間の各分野における交流の拡大を支持し、とりわけ重要な意義をもつ経済協力の発展を支持している。

 第二に、事実が証明するように、両国は「和すればすなわち利あり、闘えばともに傷つく」。戦後になって、日本で広く展開された日中友好運動の基本理念は「日中不再戦」であり、そうすればこそ、日中関係は「和すればすなわち利あり」の境地に到達できる。二度の原爆被害を受けた日本人は、「日中再戦」が何を意味するのか、十分に理解している。革新された軍事技術のもとでは、中日両国は「闘えばともに傷つく」ばかりでなく、さらに被害が広がるだろう。

 第三に、中日友好を絶えず推進し、中日関係を絶えず発展させてこそ、さまざまな問題が解決できる。それが「(中日友好は)どんな問題よりも重要だ」という言葉の正しさを証明する、もう一つの理由だ。

 第四に、もし中日間に横たわる問題が「局部」なら、中日関係の発展こそが「大局」である。そしてさらに大切な「大局」とは、中日関係の発展こそがアジア全体の利益と密接に関わるということ。言い換えれば、「中日両国が和すれば、両国ひいてはアジアにも利がある」「闘えば両国のみならず、アジアが傷つく」という考えである。

江沢民――「中日友好は両国人民の友好だ」

 「中日友好は、つまりは両国人民(国民)の友好だ」(注4)。これは2000年5月20日、江沢民主席が日中文化観光使節団のメンバーと会見したときの重要なひと言である。

 この言葉は、今後の中日関係を発展させるためのポイントを、明確にとらえている。関係発展のための本質と基礎が明らかにされ、その中にきわめて重要な意味が含まれている。
 第一に、中日関係の歴史と現実、未来は、つまりは両国の国民が共同で創るほかない。「人民、ただ人民のみが世界の歴史を創造する原動力である」からだ。

1992年10月24日、江沢民総書記は釣魚台国賓館で、日本の天皇と会見した

 第二に、日本国民に対して友好を語り、反友好勢力に対して立ち向かうのは、弁証法(対立するものを統一する思考法)による統一的な関係にある。両国関係にどんな問題や曲折があろうとも、「両国人民の友好」という基本に立てば、中日友好を破壊しようとするいかなる企みも達成できるものではない。

 野心のある一部の人につけ込まれたり、友好勢力と反友好勢力の対立を国民同士の対立まで広げたり、「相手に対して強硬に出れば、政治的に有利だ」という不正常な状況を両国内につくったり……。われわれはこうした問題の発生を、必ずや阻止しなければならない。

 第三に、人的交流を拡大し、両国人民の相互理解を促すことが、中日関係を発展させる最も有効な手段である。

 それとともに「友好」と「協力」を、関係発展のための車の「両輪」にする。「友好」によって生まれる精神力を高め、「協力」によって生まれる物質的な利益を充実させて、さらに中日関係を発展させるのである。また、ヨーロッパの経験(欧州連合)が証明したように、国と国との経済協力の深化は、「安全装置」の役目も果たす。

 「中日友好は、つまりは両国人民の友好だ」という思想からもわかるように、両国の外交は、目線をさらに下に向け、民意をよく問い、「普通の人たちの感覚」を理解する必要がある。とりわけインターネットの時代では、人々はますます多くの情報をキャッチしており、自分の声を発信している。

 「人民の力」を重視し、「インターネットの力」を十分に理解し、情報化時代における民間外交の役目をしっかりと果たす――。その必要性がいま、問われているのである。 (2002年12月号より)


馮昭奎氏【プロフィール】
 1940年8月上海生まれ。65年清華大学無線電信電子学学部を卒業。陝西省マイクロエレクトロニクス研究所などでエンジニアやプログラマーを歴任(うち79〜81年は、静岡大学工学部電子工学研究所の訪問学者として日本へ留学)。83年からは中国社会科学院日本研究所で研究室主任、副所長を歴任。現在、中国全国日本経済学会副会長、中国中日関係史学会副会長、中日科学技術・経済交流協会常務理事などを兼任する。日本経済と科学技術、日本問題、科学技術政策などに関する著書が十数冊ある。

(注)
一、『毛沢東文集』第六巻(人民出版社、1999年6月第1版)。
二、『周恩来外交文選』(中央文献出版社、1990年版、89ページ)。
三、『ケ小平文選』第3巻(53ページ)。
四、『人民日報』(2000年5月21日付)。