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「長安街」歴史散策

〜清代への時間旅行〜

 

北京、ひいては中国を代表する大通りと呼んでも過言ではない長安街。その名の由来は古く、明の万暦年間(1573〜1620年)の北京城の地図にすでにその名がみられる。

では、ここでちょっと想像してみたい。例えば、今から100年余り前の長安街はいったいどのような風景だったのだろうか?

このたび拙訳により日本語版が刊行された王軍氏の『北京再造』や、いくつかのガイドブックを手がかりに、清代へとタイムトリップ。過去への旅行者になった気分で、東から西へと長安街を散策してみたい

始まりは牌楼

起点は東単牌楼。「建国門では?」と感じる方もいるかもしれない。だが、現在の建国門の原型は、実は日本が1940年代初頭に北京を占領したさい、北京を囲んでいた城壁に通路として設けられた「啓明門」。当時はその門を貫く通りも今のような目抜き通りではなく、城壁内に観音寺胡同や羊肉胡同といった細い横町がいくつか走っているだけだった。

牌楼とは、2つか4つの柱からなる装飾用の建築物で、形は鳥居に似ているが、上に屋根がついている。多くは忠義心の篤い者や節を守った者などを顕彰するために建てられた。十字路などでは、4つの道の入り口にそれぞれ建てられることもあった。

東単牌楼は、現在の東単北大街の南口にあり、かつ単一の牌楼だったため、東単牌楼と呼ばれた。

今回は、清代にその題額に書かれていた「就日」の2文字を眺めながら、散策をスタートだ。

移転した廟

さて、この東単牌楼から西に東長安街を進むと、昭忠祠、裕親王府、堂子、理藩院、翰林院、鑾駕庫などが順に現れる。このうち、堂子とは、清の支配民族であった満州族が天を拝んだり、神や仏を祀ったりするために建てた廟で、順治元年(1644年)に東長安街の南、今の台基厰の中国人民対外友好協会の場所にあった。8カ国連合軍の占領後は、イタリア大使館になったため、光緒27年(1901年)、長安街の北、後の貴賓楼の場所に新堂子が建設される。

東三座門。つき当たりに長安左門が見える(写真提供・張先徳氏。1935年撮影)

さらに前へと目を向ける。どっしりと聳えているのは乾隆15年(1750年)に建てられた東三座門だ。三座門の手前には「東長安街」と記された牌楼。門の外の碑には、漢語、満州語、モンゴル語、ウイグル語の4種の文字で、「文武の官員はここで馬を下りるべし」との注意書きがある。清代の人にとって、ここから西は神聖な領域なのだ。

三座門という名の通り、通路は3つ。くぐった先には長安左門、つまり東長安街の終点がある。この門は明の永楽年間(1403〜1424年)に北京の宮殿の池を修築したさい、太廟の南に建てられた。ちなみに、先ほどの三座門という名の親しみやすさゆえか、三座門が壊されてからも、多くの人が、同じく3つの通路がある長安左門を東三座門と呼んだ。

T字型だった天安門広場

さて、さらに西に向かうと、期待の天安門だ。この門は、明代から清初にかけて承天門と呼ばれたが、順治年間(1644〜1661年)の修復後、天安門へと改称された。この門は普段はほとんど閉ざされている。皇帝専用の門で、皇室で特別な行事が行われるさいにしか開かれないのだ。門の真南には大清門と呼ばれる門があり、2つの門の間を繋ぐのは、大理石でできた「御路」だ。

1950年ごろの長安左門(『北京旧城』より)

さて、天安門を挟んで長安左門と東西対称にあるのが長安右門。この左門と右門を東端と西端、大清門を南端として、天安門前の空間はTの字型に広がっている。その南の壁沿いには「千歩廊」と呼ばれる黄色い瓦と赤い柱の屋根つきの廊下。廊下の東西一帯は、戸部、礼部、吏部などの重要なお役所が軒を連ねた、いわば清朝の「霞ヶ関」だ。

さて次は長安右門を出て、さらに西へ。東三座門と同時に建てられた西の三座門をくぐると、ふたたび牌楼が登場。その「長安街」の文字を見上げ、さらに進む。

幻のツインタワー

西長安街は、東長安街と対称に走る通りで、東と同じく「長治久安」の意味を込めて命名された。間もなく現在の西単にさしかかる頃、道の南側、今の電報大楼の向かい側辺りに、夫婦のように並ぶ塔が見えてくる。この9層と7層の八角形の塔は、金の章宗の時代に創建された約800年の歴史をもつ名刹、大慶寿寺にあったもの。塔以外の建物は早くに失われたが、残った2つの塔は、「双塔寺」との愛称で親しまれた。

王軍氏の『北京再造』によれば、この双塔寺は、元の大都の建設のさい、これを避けて城郭を築くべしという世祖フビライの詔に従ったため、保護された。本書には、著名な建築学者、梁思成の魅力的なプランが載っている。それは、塔を道路の中央に円形広場を残す形で保存し、道路の景観を豊かにしてはどうか、というもの。もっともこれは、当時の複雑な事情から実現せず、1954年、双塔寺は取り壊された。今回は、幸い残っている写真やスケッチをもとに、その麗姿を想像してみたい。

都市に眠る記憶

とうとう西の終点、西単へ。ここには「慶雲」と記された牌楼、俗称「西単牌楼」が建っている。その先は、ふたたび胡同の広がる一帯だ。

このように、かつての長安街は、東西の牌楼に区切られ、編みかけの編み棒のように様々な門をくぐっていた。通りを変化に富んだものとしていた建築物たちのその後の命運については、王軍氏の『北京再造』に詳しい。

過去への旅で浮かび上がってくる、清代の長安街の豊かな表情。それは、北京という街の記憶の、貴重な1ページといえるだろう。(文=多田麻美)

 

 

 

人民中国インターネット版 2009年2月27日

 

 

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