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保存と建設で変貌した天津

 

取り壊し免れた末代皇帝の家

もとは「乾園」と呼ばれた「静園」は、天津市和平区鞍山道にある。ここはかつて、日本租界の宮島路と呼ばれていた。1921年に建てられ、清朝のラストエンペラーが住んだが、解放後、多くの住民が住み、荒れ果てて、すんでに取り壊されるところだった。

1912年、中華民国が成立し、即位後3年に満たない清の皇帝の溥儀は退位した。そして1924年、北京の故宮から追い出され、翌年、天津の「張園」に移って来た。その2年後、溥儀は皇后の婉容、皇妃の文繍をつれて「乾園」に来て、ここに居を定めた。溥儀は「乾園」を「静園」に改め、ここで「変化を静観し、静かに時機を待ち」、復辟を夢見ていた。そして1931年11月10日の夜、溥儀は日本人の入念な画策と協力の下、「静園」の裏門から抜け出し、ひそかに東北地区へ逃げ、偽「満州国」の「皇帝」に即位した。

「静園」の敷地面積は3360平米。主要の建物は、レンガと木でつくられた前後2棟の2階建ての「小洋楼」である。園内には、曲がりくねった小道や長い回廊が静かな奥に通じ、奇岩怪石と清らかな泉が点在している。建物の東側にはテニスコートがあり、周囲は塀で囲まれ、凝った装飾が施されている。

「静園」に長く住んでいた黄友忠夫妻
時代の変遷とともに「静園」は、80年間で何回もその「主」を変えた。そして21世紀の初めには、ここは45世帯が住む「大雑院」(寄り合い住宅)になっていた。

1939年生まれの黄友忠さんは、天津のある国営企業の高級エンジニアで、妻の韓汝訓さんは医科大学の教授である。1979年、黄さん夫婦は勤務先から「静園」内の住居を分配されたが、その時の「静園」はもう昔の面影はすでになかった。園内のあちこちに、無秩序に建てたバラックがあり、広い会議室は二分され、二世帯が住んでいた。もとは立派だった玄関には、プロパンガスのボンベがたくさん置かれていて、何所帯もがここで食事をつくったので、煙がもうもうと立ちこめていた。

黄さんの家は、昔は食堂だった。四十数平米しかない部屋の周囲の板張りや窓、つくり付けの戸棚、床などはみな昔ながらのもので、材料も作りも非常に優れていた。

2000年になると、「静園」内の建物は見る影もないほど荒れ果ててしまったため、当時の主管部門は、ここを危険な建物のリストに登録し、取り壊そうとした。そこで市の政治協商会議の委員をしていた黄さんは、二回も提案を出し、この有名な歴史的建築物の保護を求めた。皇帝から平民になったラストエンペラーが住んだ住宅は歴史的な価値が高く、保護すべきだ、と黄さんは考えたからである。建物の原型を保つため、と黄さん一家三人は、部屋に壁をつくらず、カーテンで仕切って暮らした。  2005年8月、天津市政府は「静園」を「特別に保護すべき歴史的建造物」に指定した。そして10月から、「静園」を保護するため、住民たちの理解と協力を得て、園内住民の一斉移転が始まった。ずっとここに住んできた喬おばあさんは、自分の部屋の中で完璧に保存されてきたシャンデリアを寄付した。

2006年8月、「元のように復旧する」という原則に基づいて、復旧作業が始まった。一年後、「静園」は修復工事が終わり、正式に一般公開された。

 

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