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美酒の水と女紅軍の記憶──貴州省習水県を尋ねて(上)

 

敬服の念を抱かせる紅軍の女性兵士

古い街道に沿って歩き、アーチ形の門をくぐると、「女紅軍街」に着いた。1935年1月24日、中国の労農紅軍は長征時に土城を通過した。当時、長征に参加した朱徳夫人の康克清、周恩来夫人の鄧穎超、李富春夫人の蔡暢らはこの路地の一般民家に泊まっていた。

紅軍が土城に来た時、街道沿いの壁にさまざまなスローガンを書き残していった。現在は土城の紅軍四渡赤水博物館に保存されている

ここからさらに200㍍くらい行くと、紅軍が初めて赤水河を渡った「渾渓口」という渡し場に着いた。ここの川幅は比較的広いが、流れは緩やかだ。当時、紅軍は土城に着いた時、この渡し場から北に向かって長江を渡り、第四方面軍と合流するつもりだったが、蒋介石は急いで大軍を寄せ集め、紅軍の四方を包囲して滅ぼそうとした。それゆえ、紅軍が土城の北にある青杠坡にたどりつくと、敵軍からの攻撃をうけた。紅軍は全力で戦い、敵軍の陣地を攻め取ったが、残念なことに、続々とやってくる敵の援軍に陣地を奪還された。一進一退の戦いは悲惨を極め、双方の死傷者数も甚大な数に上った。  

情勢が不利なために、毛沢東、周恩来、朱徳らは戦いから撤退し、赤水河を渡るように命じた。そこで、周恩来の指揮のもと、紅軍の工兵と土城の船乗りは、渾渓口で夜を徹して木船や木板、戸板、竹竿、縄を使って三つの浮き橋を造った。29日のあけ方から正午にかけて、3万を超える紅軍兵士は無事に赤水河を渡った。  

初めての渡河行動(一渡赤水)は敵に追い込まれたために行ったが、その後の2回目、3回目、4回目の渡河行動は蒋介石を惑わすために、意図的に赤水河の両岸から往復したのだ。追いかけてくる敵軍を振り回し、最終的に包囲網を破り、北行きの戦略的な移動を実現した。

紅軍が長征で土城に到着した時、朱德の夫人康克清が滞在した家

当時、紅軍に所属していた大勢の女性兵士も4回に及ぶ渡河行動、雪山越えや草原の横断など苦難が伴う長征に参加した。その中には、両手にモーゼル拳銃を持ち、威名が遠くまで伝わる女性司令官の康克清もいれば、小柄でも力持ちである荷担ぎの女性や一日中、大きな鍋を背負って行軍し、食事の支度をする女性の炊事兵もいる。彼女たちは男性の同志よりも多くの試練を経験した。ある女性は長征の途中で出産したが、母親になれたのはわずか一晩だけで、ただちに赤ちゃんを地元の住民に預けて出発しなければならなかった。また別の女性は敵軍の砲弾の破片が刺さって負傷したが、2万5000華里(1万2500㌔)の長征を歩きぬいた。当時の紅軍第三軍団司令部の駐屯地跡に建設された中国女性紅軍記念館では、写真や当時の品々によって、それら女性兵士たちの勇敢な戦いぶりと不屈の革命精神を伝え、来場者に敬服の念を抱かせる。

 

人民中国インターネット版 2012年5月

 

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