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昔も今も文化の発信地 鼓楼・鐘楼周辺

 

数多く残る大邸宅

 

北京はかつて「東富西貴」といわれ、東側には金持ちが多く住み、西側には役人が多く住んでいた。什刹海と南鑼鼓巷はこの東西の境にあるため、貴族や金持ちの大邸宅が数多く残っている。

 

新中国の成立後、これらの四合院(中庭を四棟の建物で囲む伝統的な住宅)はもともとの建築構造のまま、比較的良く保存されてきた。とくに、南鑼鼓巷一帯は昔ながらの北京がもっとも完全な状態で保存されていて、四合院がもっとも集中する地域だ。

 

恭王府の西洋式の正門 (写真・刑剛)
今も残る王府(皇族の邸宅)や庭園のうち、一般開放しているのは、前海西街にある「恭王府」だけ。恭王府はもともと、乾隆帝の寵愛を受けた臣下・和シンが建てた邸宅だった。和シンの死後、二つに分けられ、慶親王と和孝公主のものになる。その後、道光帝の第6子の恭親王・奕キンのものになり、「恭王府」と名を変えた。何度も主人が変わったのは、当時の政治情勢の変化と深く関係している。そのため、「清代の歴史の半分は恭王府にある」といわれる。

 

恭王府は西洋建築と中国江南の園林、北方の建築様式が一体となっている。北京で保存状態がもっとも良く、等級がもっとも高い清代の王府だ。

 

恭王府の等級が高いことは、門の前にそびえ立っている石の獅子を見ればわかる。邸宅の門の前に石の獅子を置くのは、主人が五品以上(品は中国古代の官位の等級。一品が最高で九品まである)の役人である証拠で、官位が高いほど獅子の頭の巻き毛の列が多くなる。一般の親王の邸宅は12列、紫禁城は13列。ところが、恭王府の獅子は13列で、皇帝と変わらないくらいの力を持つことを示している。

 

什刹海と南鑼鼓巷の一帯では、恭王府のほかにも数多くの昔日の王府や庭園を見ることができる。一部は名高い人物の旧居に姿を変えている。宋慶齢の旧居はもともと醇親王府の西庭園、郭沫若の旧居は和シンの庭園、梅蘭芳の旧居は慶親王府の馬屋だった。

また一部は、国家機関になっている。摂政王府はまず衛生部となり、2001年以降は国家宗教事務管理局となった。

 

このほか、多くの王府や庭園は改築されて、役所に勤める職員の宿舎になっている。南鑼鼓巷の辺りは特に多い。

 

南鑼鼓巷が一般の観光客にはまだあまり知られていなかった数年前は、敷地の中に入り、参観したり写真を撮ったりすることができた。しかし今は観光客が多くなってしまったため、住民たちは門の前に「一般開放はしていません。参観はお断りします」との札を掲げている。そこで、門の外から軒先に施されている美しいレンガ彫りを眺め、ため息をつくしかない。

  

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