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開港150年の横浜と中国

 

横浜の中の「中国」

重宝がられた中国人

横浜にある中国物産店。「腐竹」(湯葉を細長く巻いて干したもの)などが並んでいる(写真・于文)
1853年6月3日、米国のペリー提督の率いる「黒船」が初めて江戸湾(東京湾)内に姿を現し、日本に開港を要求した。江戸幕府は1858年、米国と『日米修好通商条約』を締結、続いてオランダ、ロシア、英国、フランスとも通商条約を結んだ。これによって横浜は、1859年7月1日(安政6年6月2日)から開港することが決まった。

横浜にある横浜開港資料館には、開港当時の絵画や写真が多数保存されている。その中に、中国人の姿を見ることができる。開港以来、横浜には欧米人のほか、多くの中国人が広東、香港、上海などから移り住んだという。彼らは西洋人の商館で貿易の実務に携わる者もあれば、料理や子守などに従事した者もいた。当初は、船に荷を運ぶ港湾荷役労働者も多かった。

英語やフランス語などの西洋の言語に通じた中国人は、日本人とは、漢字による筆談で意思の疎通が可能であった。このため「通事」「通弁」(いずれも通訳の意)として外国商館で重宝がられたのである。

革命の根拠地となった山下町

孫文

中華街にほど近い山下町は、百年ほど前、近代中国における民主主義革命の先駆者・孫文(1866~1925年)が訪れた街だった。孫文は19世紀末から約30年間の革命運動を通じ、民主的統一国家を樹立し、帝国主義列強の侵略と戦うという基本的目標を達成するために生涯をささげた。

日本を十数回訪れた孫文は、9年間の日本亡命生活のうち約5年間、横浜に滞在している。亡命生活は革命運動の初期、辛亥革命前に集中しており、孫文が革命失敗の経験を積み重ねつつ、三民主義の基本構想を形成していった時期である。

孫文は1895年11月、神戸を経て横浜に到着。華僑の援助のもと、興中会横浜支部を組織の後、ハワイへ出発。米国を経て1896年、ロンドンで清国公使館に監禁されるも九死に一生を得た。1897年8月、再び横浜にやってきた。

孫文は「当時、ヨーロッパにはまだ中国人留学生はいなかったし、華僑も少なかったので、ヨーロッパに長期滞在することで、革命のための日々を無駄にするわけにいかなかった。だから日本へ行ったのである。日本は中国に近く、消息が通じやすく、計画に便利だと考えたからである」と、横浜を根拠地にした理由を語っている。

横浜では、後に首相となる犬養毅らと往来し、しばしば東京へ行き、革命派や援助者たちと連絡を取った。

1905年、中国革命同盟会が結成され、革命運動は大きく前進した。横浜を拠点として、日本国内や海外で資金集めに奔走した孫文は、1906年10月、東京に転居し、翌年、日本を離れた。それ以後、10回にのぼる蜂起失敗の後、1911年の辛亥革命により、ついに清朝打倒に成功したのである。

『横浜交易西洋人荷物運送之図』(横浜開港資料館提供)横浜恒例の春の大道芸。川劇(四川の地方劇)の登場人物に扮した人が、口から火炎を噴出し、周囲の観客を驚かせた(神奈川新聞社提供)

5万を超す中国人が住む

開港以来150年、小さな漁村に過ぎなかった横浜は、いまや人口366万の近代的な国際都市に成長した。横浜港は、米国、中国、東南アジア、中東諸国など世界の60カ国以上の国や地区と貿易をしている。とくに対中貿易は、1999年以来、米国を抜いてずっとトップで、2008年の輸出入は千八百万トンに達している。

横浜市民の意識調査によると、横浜の3大シンボルとして横浜港、山下公園と並んで中華街が挙げられている。横浜の中華街は日本最大のチャイナ・タウンである。ここに住む華僑は約4千人、神奈川県内に住む中国人は5万人を超えている。(文=于文)

 

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