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経済苦境の中の農民工たち

 

故郷に戻った農民工の生きる道

中国中部、黄河中流に位置する河南省は、農民工が中国でもっとも多く、その数は全国の約10分の1を占めている。昨年起こった金融危機の後、出稼ぎに出ていた農民工の950万人が河南省に戻ってきた。現在、彼らの再就職の問題を解決することが、現地政府の重要な課題である。

地元で再就職

毎朝、張国軍さん(右端)はスーパーの店員に訓示し、その日の仕事の手配をする
河南省安陽市滑県は中規模の町だ。商店街には、中型のスーパーチェーン店「万家福生活広場」があり、張国軍さん(24歳)は、このスーパーでアシスタントマネージャーを務める。彼は一見、普通の若者だが、しゃべり始めると、言葉遣いや目つきから、各地を歩き回って培われた成熟感がにじみでてくる。

「僕の人生の中で、出稼ぎは成長するための重要な一つのステップ。僕に外のいろんな世界を見せてくれました。もしあのときの経験がなければ、現在の仕事もなかったようなものです」 高校を卒業した17歳のとき、張さんは他の同じ年の子と同様、出稼ぎに行くことに決めた。河南、山東、河北、北京、江蘇などの省や直轄市で、ホテルの従業員をはじめ、車の修理工、コック、衣装仕立工、電子部品の組立工などのさまざまな仕事をしてきた。

2006年1月、張さんは江蘇省呉江市にある電子設備の工場に入り、ラインの製品組立工となった。勤勉に働いたので、すぐに仕事に慣れた。そして業績も際立って良かった。1年後、彼は主管に昇進し、200人あまりの作業員の管理を請け負った。月給も3000元以上に昇給した。毎月、日々の出費や、農業を営む母親に500元から1000元の仕送り以外に、恋人とともに過ごすための費用を残しておく余裕もあった。当時、彼の心は喜びと達成感で満たされていたという。しかし思いもよらず、その好景気は長く続かなかった。金融危機により、工場への注文は減り、彼の収入はひと月2000元にも届かなくなった。暮らしは逼迫しはじめ、今年の1月、故郷の河南へ戻ってきた。

帰郷した張さんはあちらこちらで仕事を探し回った。折りよく、スーパーの万家福生活広場で作業員の求人募集をしていたのを目にし、応募した。

「マネージャーは、僕の管理の経験やコミュニケーション能力を気に入ってくれたのかもしれません。その後、僕をマネージャーのアシスタントにしてくれました」と、彼は笑みを浮かべながら当時を振り返った。

「スーパーの仕事は決して詳しくありませんでしたが、半年続けてみて、対応できると思いました。今まで学んできたことは、スーパーの仕事上でも活用できます」

張さんは毎朝7時半から夜9時40分まで、スタッフの仕事の手配や、商品棚の監視、配送の割り振り、顧客へのアフター・サービスなどの作業をこなしているが、楽しく過ごしているので疲れないと言う。

現在、食費と住居費は職場負担で、給料は毎月2000元余りだ。 「僕の収入は地元で中の上くらいです。こんな生活が送れるならば、いっそ地元に残ってこの先も成長し続けたいです」と、彼はとても満足げに語った。

安陽では、春節前に、20万人あまりの失業した農民工が戻ってきた。春節から5月中旬までの3ヵ月の間、地元の政府は2300以上の企業に連絡を取りつけ、企業説明会を27回開き、18万を超える雇用を生み出し、67000人の農民工が職を得た。

河南省人力資源・社会保障庁の労務輸出処の呂志華処長は、「国家は、農村や農業、インフラ整備工事の発展のため、河南に1200億元を投資しました。このプロジェクトによって、まず何よりも河南省の農民工の失業問題が解決しました。すべてのプロジェクトが着工すれば、60万人もの働き口ができるでしょう」と、今後の見通しを語った。

経験を活かし自ら起業

自分の文具店で、新たに入荷したノートを子どもたちに紹介する張海林さん(写真・沈暁寧)
広東省東莞市で3年もの間、電気部品の組立工をしていた張海林さん(37歳)は、2008年12月、憂いに満ちた表情で故郷の河南省内黄県に戻ってきた。勤め先だった工場が倒産し、毎月の1400元近い給料もなくなってしまった。妻と幼い息子と娘4人でこの先、どのように暮らしていけばよいのか、途方に暮れていた。

「2ムー(1ムーは6.667アール)あまりの畑の収穫では、一家4人の腹を満たすことはできません。また仕事を探したいけれど、今は景気が悪く、どこも人を雇ってくれません。自分で小さな商いをしたいが元手もありませんでした」  張さんは、手立てが何一つ浮かばなかったころ、県内で故郷に帰ってきた農民工向けの起業養成クラスが開設されたことを聞き、軽い気持ちで授業に参加してみたという。講師は省からやってきた専門家で、参加した農民工らに各自の起業の方向と計画を書き出させ、そして一つ一つ分析して実行可能な範囲の提言をし、投資や経営の知識と理念を教えた。

授業に参加して1週間後、張さんは自分の文具店を開きたいという望みも、高嶺の花ではないと思うようになった。どのようにすればよいのかアイディアはあったが、資金が不足していた。ちょうどそのころ、県政府は起業する農民工に対し、無利息で資金を貸し出しすると発表した。この政策は、彼にとって本当に救いの手であった。さっそく銀行より3万元を借り入れ、自分で蓄えた約4万元とあわせて、中学校近くの使われていなかった家屋を借りた。そして今年初め、商品棚を買い足し、文具など百種類にのぼる学生向けの商品を買い付け、夢だった「祥勝文具店」をオープンした。

現在、張さんは妻とともに店を切り盛りしており、約20平方メートルの小さい店は、1000種類にのぼる文具で埋まっている。加えて、中国国内で有名なボールペン芯のブランド「真彩」の現地代理店にもなった。毎日、たくさんの子どもたちが彼の店を訪れる。稼ぎがいいときは、1日で数百元になるという。

「毎月の純収入は3000元あまりで、出稼ぎに行っていたころよりもさらに多い額です。家での商売は心が落ち着きます。以前は家族で過ごす団らんの時間は毎年春節のころの1回だけでしたが、今ではそんな心配はなくなりました」と、張さんはうれしそうに語った。 「失業農民工を支援する政府には、とても感謝をしています。数年かけてさらに資金を蓄え、経験も培って、文具店を大きくするのが将来の夢です。そのときは、私と同じような境遇の農民工を採用し、彼らの雇用問題を解決する手伝いをしたいと思います」

技術を身につけた農民工たちの起業奨励は、河南省が抱える農民工の雇用問題解決措置の一つである。労務輸出処の呂処長によると、現在、河南省に帰郷した950万の農民工のうち、50万人近くが起業したという。彼らのほとんどは、栽培業、養殖業、農産物加工業に従事している。現地政府は、小額の貸付金の提供や職業訓練クラスの開設、優遇税制政策などの方法で、農民工支援を行っている。

安陽市は今年、農民工による起業者数は六千人新しく増え、それに伴い3万人の雇用先ができた。

二世代それぞれの道

かつて農民工だった李勤水さんは、帰郷した娘の李翠さんに「出稼ぎはどうだった」と尋ねた(写真・沈暁寧)
河南省滑県許荘村の午後はさびしく感じられる。村の働き盛りの男たちはほとんど出稼ぎに行き、村に残って農業を営むのはお年寄りや女性たちだけだ。李翠さん(21歳)は、がらんとした部屋の中でひとり、家事をしている。

3年前、滑県労働局の紹介で、李さんは同じ村の女の子七、8人といっしょに、1000キロ以上離れた広東省へ出稼ぎに行った。中山市にある靴の工場で、毎日12時間働き、毎月1800元近い給料をもらっていた。家族の生活はいつも逼迫しており、弟はまだ高校生だったので、自分の生活費を節約して、実家に毎月1000元を送金していた。しかし、昨年末、工場の収益が下がって給料も減り、家計を助けることができなくなった。李さんは、家族に縁談を紹介されたのを期に、今年の1月、いなかに戻った。

「外ではお金が稼げますが、たいへん疲れます。時々、故郷を思い、こっそりと涙したこともあります。家に戻って、心は落ち着きましたが、お金を稼ぐ機会がありません。それに、そばに友だちがいないので、本当につまらないです」

また出稼ぎに行くかという問いに対して、「私一人では決められません。結婚した以上、自分の進退は最後に夫が決めるものだから」とためらいながら答えた。しかし、彼女には面白さに満ちる外の世界への期待が残っているようだ。 李さんの父、李勤水さんは、村の人を手伝って家屋を建てている。建築労働者として出稼ぎに行った経験のある彼は、娘のつらさを理解している。しかしその一方で、彼は娘がまた出稼ぎに行くことに賛成している。

「以前、娘は家から出たり、知らない人と話をしたりすることさえも怖がっていました。3年間の出稼ぎを経験した後は、見識が広がり、仕事の能力も高まったようです」 娘がよその省に出稼ぎに行ったとき、旅費が高くて会いに行くのをやめた。電話は週に1回。いつも電話口で、友だちを多く作り、みんなと仲良くするようと娘に教えた。それは彼自身が出稼ぎに行ったときの経験から得たものであった。 もうすぐ50歳になる李勤水さんは、やむをえないことがなければ、決して出稼ぎに行かないと言う。年齢や体力的に現在の採用先のニーズに応えられないからだ。

故郷に報いたい

滑県隣の内黄県で、李勤水さんより10歳ほど年上の靳長有さんは、故郷で建築資材の市場を建設するという大きな夢を抱いている。

1974年、当時19歳だった靳さんは、家が貧しかったため故郷を離れ、土砂や木材の運搬、溝掘り、道路建設などの仕事に就いた。誠実な人柄で、苦労や辛抱も厭わず働いたので、数年後には建設チームの現場監督になった。1980年初頭、彼は建築資材の販売に専念するようになった。1990年代以降、農村部のインテリア・ブームの高まりにつれ、建築資材への需要が次第に増え、レベルもますます良くなった。彼は経営の視野を幅広い市場の農村に向け、一挙に成功を収めた。2003年、彼の資産は300万元を超えた。

先日、靳さんは内黄県政府と契約を結び、建設用地の開発権を得た。2億元の投資で建築資材の市場を建設する予定だという。このプロジェクトに、彼は心血のすべてを注いだ。 「半生をかけて蓄えたお金で、故郷で一流の建築資材市場を建設する予定です。村のみなさんが家の近くで一番気に入る資材を買い、自分の家を建てられるようにしたい」と、市場のイメージ図を指しながら、彼は興奮気味に語った。

この広大な計画に、彼の家族はリスクが心配で、あまり賛成していない。しかし靳さん自身は、半生をよその地で過ごしたので、今は故郷に報いたいと考えているという。彼の予想では、建築資材市場の完成後、毎年1200万元の税金を国に上納できるほか、地元の2000人の農民工の就職を解決できるそうだ。

帰郷した農民工のための技能訓練クラスで、パソコンによる製図を一生懸命に学ぶ董亜鑫さん(写真・沈暁寧)
まずは技術を高める

同じく内黄県出身の董亜鑫さん(17歳)と鄭小雪さん(20歳)は深圳へ出稼ぎに行き、半年足らずで地元に戻ってきた。給料が低すぎたのが原因だという。現在、2人は県城にある華育職業養成学校でパソコン技術を勉強している。董さんは画像処理を専攻し、鄭さんはオフィス応用技術を選んでおり、30人近いクラスメートとともに無料で職業訓練を受けている。2ヵ月間の訓練期間を経て、自分の技術や能力を充実させ、将来は都市に行って仕事を探したいと考えているという。董さんは写真館や広告会社での就職を、鄭さんは深圳に戻って秘書の仕事を望んでいる。

長年にわたって農民工と向き合ってきた安陽市労務輸出管理サービス処の楊建旭主任は、農民工二世代それぞれが選ぶ道に対し、理解を示している。

「少し年を取った、ある程度の経験や技術を持つ農民工は、ほとんどが故郷に戻って起業したり、残りの人生を楽しんだりしたいと考えています。われわれは、彼らに優遇条件を提供し、安定した暮らしを送れるようにとサポートしています。一方、若者は活発な考えを持ち、外の世界を渡り歩くことを望んでいるので、彼らの場合は、まず技術を身につけさせ、専門性を持たせてから、雇用先に推薦するようにしています」 河南省では、靳さんと同じ世代の農民工の六割が、小学校しか卒業していない。しかし現在、農民工全体の6割は、中学校以上を卒業している。彼らが従事する、または憧れる職業は、もはや主に労力を要するものではなく、技術系へと変化している。呂志華処長の手元の統計によれば、河南省に、35〜40歳で、技術能力のレベルが低い農民工はまだ1000万人以上おり、彼らの雇用問題の解決は難しいという。

「業務能力の養成を強化し、彼らの技術能力を高めなければなりません。2004年から、すでに600万人の農民工は、政府が組織する各種の技能養成教育を受けました。ここ数年、この訓練に参加する人数は、毎年100万人のスピードで増加しています」と、呂処長は語った。

 

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