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人生の試練を筆にこめる書家 石松

 

石松
  草書体で名高い書家・石松は、行書、草書、隷書、篆書が一体となった独自の書道芸術を生み出した。彼の作品は情熱的かつ奔放で力強く、芸術の境地と人間の感情が筆鋒を通して紙上から生き生きと伝わってくる。

 

近年は何度も国内外の展覧会で入賞。その作品は『中国書画名家大典』にも収められ、中国国家博物館や人民大会堂、故宮博物院、大英博物館などに収蔵されている。外国の要人への贈り物になることもある。

 

貧しい山村で生まれ育った彼は、どのように修練を積み、独自のスタイルをつくり上げてきたのだろう。今後、日本でも展覧会を開きたいと考えている石松の生い立ちと成功までの道のりを紹介する。(文中敬称略)

 

4歳で字を習う

 

「曠達懐遠 曠朗無塵可通達、高懐明鑑能超遠」
 石松は河南省北西部にある王屋山の麓で生まれた。ここは故事「愚公、山を移す」の発祥の地。石松の父親は2年間しか学校に通えなかった。祖父は1日も学校に通っていない。

 

幼いときに両親が離婚したため、石松は父親と祖母に育てられた。この「石」場に生えた小さな「松」は、雨に打たれても風に吹かれても倒れることなく、まだ分別がない意識の中に、もう一つの光景を見ていた。

 

4歳というとまだいたずら盛りの頃であるが、石松の小さな頭の中は、さまざまな形と模様でいっぱいだった。隣近所の門に貼ってある対聯、村内の壁に書かれたスローガン、街角のレンガや瓦の形、そして水をまいたときに出来る形状まで、自分の目に映るものすべてに興味を持った。

 

4歳なのでまだ学校には通っていなかったが、書に対して強い興味を持っていた。遊んでいるとき、どこかに字が書いてあるのを見つけると、地面に腹ばいになり、それを手本にして書いた。いったん書き始めると、お腹がすいたのも家へ帰るのも忘れてしまう。祖母が呼んでいる声を聞いて、ようやく起き上がり、家へ帰った。

 

家の中は、壁や床、かまどやベッドの前まで、どこもかしこも彼が書いた字でいっぱいだった。

 

しかし石松は、ただ字が書けるだけで、字を覚えたわけではなかった。そのうち、これらの字が何を意味するのかを知りたいと思うようになり、拾った紙切れを持って、字が書けない人のために代筆をしている老人のところへ行き、字を教えてほしいとお願いした。老人は、この4歳の子どもの目に強い渇望を感じ、感動した。

 

村はずれに住む老人のところからは、石松が朗々と本を読む声が聞こえてくるようになった。老人と幼い子どもがいつも一緒に独特な方法で勉強する姿は、この村のユニークな光景となった。

 

6歳で小学校に通い始めたとき、石松はすでに数百の文字を覚えていた。小学校を終えて中学校に入ったとき、その才は周辺では有名だった。毎年の年越しの際には、どの家も対聯を書いてほしいと石松のもとにやって来た。

 

石松には天賦の才能があったのかもしれない。しかし苦難に満ちた経験をし、辛抱強く努力しなければ、後の成功はなかっただろう。

 

柿を売って文具を買う

 

「白日依山尽、黄河入海流、欲窮千里目、更上一層楼」

 12歳のとき、家が貧しかったため、週末になると大人と同じように自分の家で作った野菜や果物を天びん棒に担ぎ、野を越え山を越えて売りに行った。こうして自分の学費を補ったのだ。

 

夏休みになると、耐火材料工場や小さな炭鉱へ行ってアルバイトをした。まだ子どもの柔らかい手は、何度、皮がむけたか分からない。きりきりと痛んだが、お金を稼げば自分の好きな「文房四宝(筆、墨、紙、硯)」が買え、もっとよく書の練習ができるようになると考えると、力がわいてきた。

 

しかしどんなにがんばっても、アルバイトで稼いだお金は「文房四宝」を買うのにはほど遠かった。そこで、柿を売って稼ごうと考えた。山にはたくさん柿がなり、秋になると、あちこちが鮮やかな赤に染まる。これは石松が自分の夢を持ち続ける希望となった。

 

石松は柿を2、300キロ仕入れ、リヤカーを引いて街まで売りに出かけた。12歳の子どもが、リヤカーの縄を手で引いたり、肩に担いだりして、2、30キロの山道を歩く。リヤカーの縄は彼の汗でびっしょりになり、まだらの血の跡がついた。

 

この年の秋、石松は苦労の対価として、とうとう思い焦がれた「文房四宝」を手にした。これは彼が生まれて初めて手にした「文房四宝」だった。

 

雪の中、程門に立つ  

 

「牆角数枝梅、凌寒独自開。遥知不是雪、為有暗香来」
 成長するにつれ、石松の視野は広がり、芸術への思いがますます募った。そして、書だけでなく、絵画にも興味を持った。彼の目の中では、世界はすべてが美しい絵巻だった。

 

何かを見ると絵にしたくなる。絵を見ると絵の中の人物や風物を描き、芝居を見ると登場人物や隈取を描いた。彼の目の中は、いつも芸術の境地に満ちあふれ、さらに十数種の楽器も演奏できるようになった。地元の人々は石松を才能のある人とみなした。

 

書道の技巧を磨くため、王屋山から20キロ以上離れた孟県にすばらしい書の先生がいると聞いた石松は、自分の作品を持って教えを請いに出かけた。そして、毎週日曜日、先生の家で教えてもらうことになった。

 

石松は毎週、往復40キロ以上の山道を通った。朝早く家を出て、夜遅く家へ帰る。一年中、どんな天気の日でも、休むことはなかった。先生は、石松の勉学に対する熱意だけでなく、その人柄にも感服した。

 

真冬のある日、石松が朝早く起きて門を開けると、外は一面吹雪だった。それでもまったく迷うことなく、孟県に出かけた。全身に雪をかぶって先生の家についたとき、先生の家族はまだみんな寝ていた。そこで石松は、門の外で一時間以上静かに待った。

 

起床した先生が外出しようとしたとき、雪だるまのようになった石松に気がついた。先生は心を痛めて「お前、なんで門を叩かないんだ。こんな大雪で、こんな寒い日なのに」と言った。そして、石松の凍えきった手をさすりながら家に入れた。このとき心の中で、「これこそ『雪の中、程門に立つ』(師を敬い真心から教えを求めるという意)だ。こいつはきっと成功する」と思った。

 

先生の教えのもと、石松の書の技巧は上達した。石松はその後、各地の名高い師をたずねてまわった。

 

10年間の「文化大革命」の間、ほかの人たちは闘争に明け暮れていたが、石松は書道の技巧を学ぶのに専心し、古人の拓本や墨跡をたずね歩き、書画を模写した。名家たちの指導により、石松の書道は成熟していった。

 

スランプに陥る

 

 
「咬定青松不放松、立根原在破岩中、千磨万撃還堅勁、任爾東西南北風」

石松は少年時代に柳公権や趙孟 、欧陽修の字を習い、青年時代には王羲之や米フ、岳飛の筆意を学んだ。このように、長年熱心に書を学び研究してきたため、自分の書道はすでに高いレベルに達したと思った。

 

毎年年末には、対聯を書いてほしいと、近くに住んでいる人たちはみんな石松のもとにやってくる。ときには遠くへ出かけていき、街頭で自分の書を売った。お金がなくても自分の書を欲しがる人がいたら、無料であげた。

 

年末が近づいたある日、書が売り終わったあとも多くの人が石松を囲んで去ろうとしなかった。このとき、ある人がそっと机を運んできて、ある人が机に紙を置き、ある人が墨をすり、ある人が石松に筆を渡した。みんなの熱意に感動した石松は、コートを脱いで寒風の吹くなか、一気に百枚ほどの対聯を書いた。人々に何重にも囲まれたこのときのことは、石松にとって一生忘れられない思い出と誇りになった。

 

しかし思いもよらなかったことに、ある書道展での失敗が、石松のこれまでの誇りと自信を打ち砕いた。

 

まだ30歳になる前のその年、石松は省の書道展に作品を出品した。しかし落選し、このことは石松を大きく打ちのめした。その後、どんなに苦心しても要領がつかめなくなり、苦労して芸術をやっていくことがほんとうに自分の道なのか疑い始めた。

 

芸術に対して大きな志を持っていた石松は、スランプに陥り、人生の目標を失ってしまった。生まれてはじめて、巨大な茫漠と困惑の中にはまり込んだ。

 

そんなとき、省の書道協会の役員である王澄が王屋山にやってきて講義をした。石松は矢も盾もたまらず、自分の作品を持って王澄をたずね、自分の困惑と苦しみを訴えた。

 

石松の書を見た王澄は、「きみの問題は従順すぎるところにある。誰かの書を学べばその人の書になり、誰かの書を書けばその人の書になる。きみが学んだものはすべて他人のもので、自分のものがない。拓本から抜け出そうと思うなら、学んだ技巧を自分の作品の中に溶けこませなさい。古いものと新しいものを溶け合わせることをマスターし、さらに理論上の修練も積まなければならない」と指摘した。

 

これを聞いた石松は、自分の欠点が何なのかはっきりと分かったため、10年かけてもう一度、一から自分を鍛えようと決心した。そこで、専門の大学に入って勉強することにした。この十年の時間を使って自分の才能をしっかりと磨き、書道の技巧を学ぶだけでなく理論をきちんと研究し、独自性を作ろうと決めたのだ。

 

独自のスタイルを形成

 

石松が常用している落款印。石松の号は「南嶺人」
 書道展の落選によって、石松は芸術創作に没頭し、敬虔な心で謙虚に信じることの大切さを知った。10年という時間を使って、書道芸術の研究に没頭し、芸術界の名家から敬虔な心で学び、自分は誤った道から絶対に抜け出せると信じた。そして心の底にある障壁を乗り越え、芸術の高峰をよじ登ろうと決心した。この間、さまざまな場所や芸術界の名士たちをたずね、全国規模の書画芸術交流活動に多く参加した。

 

1995年、石松は中国芸術研究院が北京で開催した中国書画芸術交流シンポジウムに出席し、全国各地からやってきた数多くの書画愛好者と知りあった。石松は彼らにかつての自分の姿、そして自分の希望を見た。

 

石松はまた、張旭、懐素、黄庭堅の書を体得し、さまざまなスタイルや流派を習った。それぞれの長所を学び、それを上手に融合させて、ついに行書、草書、隷書、篆書が一体となった独自の書道芸術を生み出した。

 

この10年の経験のなかで、石松は書道芸術には3つの境地があるという考えに至った。第一段階は楷書。楷書のマスターは書を学び始めたばかりの時期。第二段階は行書。これはある程度熟達した時期。第三段階は草書。これは書道芸術の最高の境地。

 

このとき、石松の心にあった情熱は、千軍万馬のごとくほとばしり、ついに自分の心境にたどり着いた。

 

石松の書道芸術のなかには、端正かつ雄渾で、力強い行書、滑らかで自由奔放、勢いのある草書を見ることができる。彼の書道は、古風かつ優美で、慎み深く、また力強い。秋の霜のような鋭さもあれば、春の花のような新鮮さもある。

 

中国の書道芸術の境地は、結局は人の精神のなかにある。石松の書道芸術も紙に筆を下ろしたとたん、変化に富んでとらえがたく、強く何かを訴え、風音がいつまでも耳に残るように、奥深く精妙な域へと人々を誘う。字は非常に伸び伸びとし、新鮮さにあふれ、雁が大空を高く飛ぶように、生命の本領を最大限に表している。

 

水、火、風と日、月、星を自分の力、気、精神と融合させ、象徴的な境地を筆の先に移し、もっとも深い悟りを心境から出して、自然のなかに溶け込ませている。

 

石松の書道は、現代芸術を代表するスタイルのひとつといえる。(劉雲=文)

 

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