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精神性を粘土に込める彫塑家 呉為山

 

著名な芸術家の顧毓琇(左)とともに写真におさまる呉為山

「中国文化人肖像シリーズ」の制作で知られる彫塑家・呉為山は、1990年代半ばから同シリーズの制作を始めた。その独特な「写意」(形を主とせず、対象の内容・精神、さらには芸術家の精神性を表現すること)の手法は、かつて広く非難されたが、今は逆にほめ称えられるようになっている。しかし呉為山本人は非難されようがほめられようが、あまり気にかけていない。自分の創作活動は意義があるもので、中国人の精神イメージを改めて示す重要な作品になると堅く信じているからである。(文中敬称略)

泥人形づくりからスタート

『魯迅』
呉為山は江蘇省東台市の読書人の家に生まれた。物心がつき始めると、家にある古書の挿絵と陶磁器の模様に夢中になった。11歳から写生を始め、知り合いの年寄りを描いた。17歳のとき、大学受験に失敗。無錫工芸技術学校に入り、泥人形づくりを学び始めた。その後「写意」彫塑に携わることになったのは、このときの経験がおおいに影響している。

中国の民間の泥人形づくりは、西洋彫刻の手法とは異なり、人体の筋肉や骨格の正確な表現を求めない。簡単でおおざっぱな手法で人物の風格と趣を表す。呉為山は、自分の彫塑の原点が正規の美術学校で受ける比例や構造から始まる訓練ではなく、民間の職人から学んだ中国の彫塑の伝統的な「写意」精神であったことは幸いだったと語る。

『斉白石』
当時、学校の近くに、80歳を過ぎた泥人形づくりの名人が住んでいた。彼は暇なとき、門の前を行き来する鶏や犬などをつくっていた。見事な手さばきであっという間に生き生きとした作品をつくりあげた。彼から学ぶところが大きかった呉為山は、たびたび自分が制作した絵や泥人形を持っていって、指導してもらった。卒業する際、名人はスケッチブックに「呉為山君は本当によく努力した。私は感動した」と書いてくれた。この言葉が書かれた紙は、今でも大切にしまってあるという。

呉為山にとってさらに忘れがたいのは、1980年の冬から81年の春にかけて、農村へスケッチに行ったことである。見渡す限り果てしない平原とそこに暮らす農民、冬の太陽、春風、牛……。すべてが、朝から晩まで描く対象となった。

古い考えの影響を受けている農民たちは、呉為山を見るとあわてて手で顔を覆った。絵を描かれると、自分の魂が奪われてしまうと心配したからだ。しかし大部分の農民は素朴な笑顔を浮かべた。燦々と輝く太陽が、彼らの褐色の肌と長年の農作業でまっすぐに伸ばせなくなったものの力みなぎる指に降り注いだ。このときの経験が呉為山の将来を決めた。現実の生活と密接に関係する創作活動になったのだ。

「写意」精神を主張

『孔子』
2003年、呉為山は英国ロイヤルファミリーの彫刻賞を受賞した。受賞作品は『睡童』という小さな塑像である。

ある日、友人の有名なデザイナー速泰熙に頼まれ、生後4ヵ月の彼の孫の足形をとりに行った。赤ん坊は熟睡中で、頭はすこし後ろにそり、口は半開き。とても可愛らしかった。呉為山は赤ん坊が息をするたびに広がる純真さと美しさに見惚れ、その場で粘土を借りて、無邪気で可愛らしい赤ん坊の塑像をあっという間に作り上げた。これが受賞した『睡童』である。

この作品の赤ん坊の顔は、呉為山の人物塑像によく見られるように、のっぺりとしていて目鼻立ちがはっきりしない。目の輪郭も分からないほどである。しかし、無邪気さや可愛らしさは一目で分かる。

呉為山によると、これまで中国の多くの彫塑家たちは、西洋の写実主義に影響され、外見が似ていることを重視した。人物の塑像は、鼻を高くし目をくぼませなければならず、そのコントラストがはっきりしてこそ、「塑像」と呼べると思っていたという。しかし実際は、西洋人は彫りの深い顔立ちをしているから、西洋の塑像はそのようになったのである。

『睡童』
しかし中国の彫塑家たちの多くは、盲目的に西洋の審美眼に追随し、中国の特色を捨ててしまった。中国の古代の塑像は、顔面がのっぺりしているものが多く、五官はあまり正確に表現されていない。むしろ、表情を重視した。これが中国の彫塑文化における伝統的な「写意」精神なのである。

古代ギリシャの塑像は、人間の形体を強調し、そぶりや表情などはあまり重視していない。制作に長い時間をかけ、何度も修正してようやく完成する。作品は、作者の人間の客観的様相に対する表現である。

中国の「写意」塑像はそれとは異なる。あっという間にできあがることも多く、作者の強い主観が含まれている。一瞬の表情をとらえ、それを表現する。しかも表情は誇張される。民間の泥人形や漢俑にはこの特徴がはっきり現れている。

呉為山が主張する「写意」塑像は、このような中国の伝統的な「写意」精神をもとにして、西洋の近代芸術の思想を溶け込ませ、中国の塑像特有の個性を出したものである。これは、故郷を離れて22年経つにもかかわらず、お国なまりを忘れないのと同じことだという。芸術は言葉と同様、外部のものを受け入れながらも本来のものは守り続ける。そうしてこそ、内在の個性が生まれるのである。

文化人の塑像を制作

「中国文化人肖像シリーズ」は、これまでの作品の中でもっとも力を入れているものだろう。その作品数は5、600点にのぼる。

中国の塑像制作はこれまで、その時代の英雄を対象とすることが多かった。例えば、古代の仏像、毛沢東像、そして「文化大革命」の時代は標準的な労働者、農民、兵士を英雄像にした。

1990年代に入ると、社会全体の商業化が進み、人々はビジネスに走り、作家や科学者、芸術家の地位はさがった。そのため、若い彫刻家のなかには商業化の道を歩む者もいた。また中には、かつての「英雄像」に反発して、西洋の審美眼に近づこうと努力し、やたらおかしな塑像をつくる者も現れた。しかしこれらは、心の奥底の世界を表現したものではなく、相応の社会的背景もなく、単に西洋の近代芸術を表面的に真似したにすぎなかった。

このことに大きな危機感をもった呉為山は、「中国文化人肖像シリーズ」の制作を通して中国の塑像をイメージしなおし、中国人の精神の核となるものを改めて見つけ出そうと考えた。

呉為山が制作した自分の塑像を見つめる数学者の陳省身

呉為山はこれまでに、孔子、老子など古代の人物をはじめ、近現代の著名な画家である斉白石、徐悲鴻、作家の謝冰心、哲学者の馮友蘭、物理学者の楊振寧などの塑像を制作した。始めは芸術家だけを対象にしていたのだが、人文、科学などの分野にも徐々に制作範囲を広げた。

塑像を制作するなかで、呉為山は多くの著名人と深い友情を結んだ。著名人たちの気さくな態度に感動したという。例えば、著名な教育家、芸術家である顧毓琇は百歳という高齢であったが、呉為山が塑像制作のために米国へ訪ねていくと、わざわざ彼の宿泊先まで会いに来てくれた。物理学者の楊振寧も、呉為山が制作している間、仕事をしていた手を休め、2時間以上じっとしていてくれた。そして、「私の頭に直接手を触れて、感触を確かめてもいいですよ」と笑いながら言った。本当のありのままの自分を表現してほしいと考えたからだ。

塑像制作には、物理的な表現と人間の心理的な表現が必要だと呉為山は話す。このため、制作する本人が深く感動しなければ、塑像をつくることはできないという。(高原=文)

 

 

人民中国インターネット版 2009年4月30日

 

 

 

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