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紫禁城の后妃の暮らしをしのぶ

 

粉彩花卉凸三嬰戯瓶

■清・乾隆年間

■高21.0cm、口径5.8cm、高台径7.6cm

三花弁式の口に、長い首、丸い胴、円形の高台をもつ。内側には松石緑釉(清代に開発されたトルコ石の発色をする釉)を施す。外側は、瓶の首の付け根に巻かれた赤いリボンと遊ぶ3人の子どもの嬰戯図が、粉彩(琺瑯彩)で彩られた堆塑(立体物を本体に貼って飾る技法)で作られている。高台内は松石緑釉を施し、青花による「大清乾隆年製」6字3行の篆書款がある。

 嬰戯図は、唐代の長沙窯の磁器にすでに表われており、宋、金代には磁州窯の枕に多く見られる。唐、宋、金代の磁器の嬰戯図は主に庶民の生活を反映し、単純な人物の動作や情景が民間窯の作となった。明代から楽しげな図柄が官窯磁器にも取り入れられ、人物と情景の表現が拡大し、清代ではさらに発展し、官窯磁器の1種の定形化された象徴図案として祝賀と太平を寓意するようになった。堆塑の手法は、乾隆官窯の粉彩磁器の特色の1つである。手法は細やかで生き生きとしており、色彩は清新で自然、製作は精緻であり、乾隆期の奥深い磁器の技術を鮮やかに反映している。

慧賢皇貴妃朝服像

■清 

■絹本、着色 画面 196.0×123.0cm  表装 283.5×130.2cm

慧賢皇貴妃(?-1745年)は、河道総督(河川や治水の専門官)高斌の娘。雍正年間に弘暦藩邸の側室に選ばれ、乾隆2年(1737年)、貴妃となった。彼女は穏やかで賢く、情と理を兼ね備え、皇帝に尽くした。乾隆帝が水害による凶作で苦しむ農民のために心を痛めていた時、彼女は皇帝の側に侍り、慰めた。彼女は常に伝統的な徳の高い女性の言行を自分に課し、これを終生変わらず行った。そのため乾隆帝の寵愛を深く得た。乾隆10年(1745年)病のため亡くなり、皇后に次ぐ皇貴妃に追封された。本図は、細やかな筆と光の処理により、端正で徳のある皇貴妃の内面を生き生きと描いている。

画琺瑯八棱開光提梁壺

■清・乾隆年間

■全高37.0 cm、口径9.1cm、底径13.5cm

八角形をしており、上部に金星玻璃(清代に開発された金星石の輝きをもつガラス)をはめた提梁(持ち手)、中間に先の曲がった注ぎ口、下部に∽型足付き台座があり、いずれも銅製金メッキでできている。台座には画琺瑯による菊花文を飾った小盒(油入れ)があり、油を燃やして温めることができる。提梁壺と小盒の底にはそれぞれ「乾隆年製」の款がある。提梁壺の八角の面は開光(飾り枠)の処理をし、その中に着色の山水と花鳥図各4幅を交互に並べて描いている、筆致は精緻であり、宮廷画家の筆になるものであろう。金属と琺瑯、ガラス加工が一体となった作であり、造形は西洋式に倣うが図案と主題は中国の伝統的な山水花鳥画を描くという東西文化が融合した作であり、画琺瑯器の精品である。

 

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