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草書の傑作残した「大器晩成」の巨匠
書道家 林散之 氏

 

本誌特約ライター・諾曼 写真提供・王罡

 

『人民中国』で一躍有名に 

 

プロフィール
林散之 (Lin Sanzhi) 本名は霖、号は左耳、江上老人など。1898年江蘇省江浦県生まれ。8歳から書画に触れ、16歳で范培開について書を学び、1929年上海に行き黄賓虹に師事する。1972年全国書法作品選抜で一挙に有名になった。趙樸初、啓功などの名家からその詩、書、絵画を「当代三絶」とたたえられる。1989年12月6日病没、享年91歳。

林散之氏は「大器晩成」の典型と言えるだろう。名を成したのがとても遅かったため、彼は数十年にわたって苦学し、その書における気、韻、意、趣を養い、非凡で高度な境地に達していたのだ。「林散之先生は画家、詩人、大書家として、1973年以前は世の人に知られることが極めて少なかったのは、自ら名声や富を求めず無欲だったためです」と、当時本誌の編集者だった韓瀚さんは彼をこう評した。  

1972年、中日国交正常化を祝い、本誌は「中国現代書道作品選」特集を企画し、書の作品の評議・選出活動を開始した。韓さんは著名画家の亜明氏を訪ね、彼に江蘇省の書家を何人か推薦してほしいと頼んだ。すると亜明氏は表装していない巻物を取り出し、韓さんの前に広げた。亜明氏は「林散之の存在があってこそ、中国の書は国際的にトップの地位を保つことができます。彼は中国のものであると同時に、世界のものでもあります」と言った。翌日、韓さんは巻物を持って啓功氏を訪ねた。作品を見て、啓氏は崇敬の念が込み上げ、帽子を取って3度おじぎをした。そして彼は、林氏は草書が素晴らしいだけでなく、隷書、楷書も同様に素晴らしいと話した。この後、趙樸初氏、頓立夫氏らがみな林氏の作品を称賛した。頓氏は「私は、これは中国を代表できるものだと思う」と直言した。  

1973年1月、韓さんが執筆した「中国現代書道」特集が本誌に掲載されたが、なんと冒頭に紹介されていたのは林氏の草書だった。ここから、林氏の名前は中国ひいては日本など多くの国や地域に広く知られるようになった。この当代の傑出した書の大家、詩人、画家である彼を記念するため、後の人々は記念館と芸術館を設立した。林氏は草書の最高峰を意味する「当代草聖」と呼ばれ、彼の草書は「林体」と呼ばれている。

 

『中日友誼詩』誕生秘話 

 

林氏第一の草書と讃えられる『中日友誼詩』

林氏は書、詩、画で「三絶」と呼ばれる。その書風は淡然さをもって着想し、書の境地は奥深く成熟して世俗を超越しているが、これらはみな彼の人品、学識、修養と切り離せない。  

本誌に林氏の草書作品『毛沢東の詞 清平楽・会昌』が掲載されると、彼の名前は日本にも初めてとどろいた。1975年3月、日本の書道訪中団は南京訪問の際、林氏に面会したいと申し出た。林氏はそれを聞いて、烏江から南京に出向き日本の友人を迎えた。この時、林氏は4編の詩を作り、そのうち1編の詩句を書いた巻物を日本の友人に贈った。これが後に人々の称賛を集める林氏第一の草書作品『中日友誼詩』だ。

林氏第一の草書は中国草書芸術の高いレベルの成果であるばかりでなく、中日両国書道界の友好交流の証人でもある。1984年5月、日本の書道訪中団が林氏を訪ねた時に、団長で日本書道界の巨匠である青山杉雨氏は林氏のために「草聖遺法在此翁」という詩句を書いた。この後、日本書道界の訪中団体はみな、中国を訪れた際に林氏に面会できることを光栄と考え、その書道を絶賛した。

 

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