三線の花

2021-01-04 16:10:21

張懿璇(コニーイーセン・チョウ)=文

 

コニーイーセン・チョウ

中国生態環境部シニアエンジニア、ハワイ大学工学院客員研究員(2018〜2020年)。博士(工学)。琉球古典音楽野村流音楽協会ハワイ支部・御冠船歌舞団のバンドメンバー。

 

さまざまな地域の歴史の中で、人々に非常に親しまれてきた楽器がある。この種の楽器は人の声と重なり合う音域を持ち、軽くて持ち運びがしやすく、独奏でも伴奏でも人々を楽しませることができ、宮廷から農村まで広く演奏されてきた。この種の楽器には、欧州のギター、中東のウード、南米のチャランゴ、ハワイのウクレレなどがある。中国や琉球で代々受け継がれてきた三弦もその一つだ。

 

今日ぬ誇らしや なをにぎやな譬る 蕾でをる花の 露きやたごと

――琉球古典音楽「かぎやで風節」

 

三弦から三味線まで

音域が最も広い撥弦楽器の一つ「三弦」は、秦代の楽器「弦鼗」から変化して生まれた。今日、三弦はさまざまな中国音楽や演劇で広く使われており、多数の独奏曲、合奏曲がある。

14世紀後半、中国福建から渡来した「閩人三十六姓」により、三線の原型となる三弦が琉球にもたらされた。伝説の琉球古典音楽の始祖、赤犬子は琉歌に三弦の伴奏を付けて歌った。15世紀後半になると琉球の三弦「三線」は、尚真王の奨励により士族必修の宮廷音楽になった。その後、16世紀半ばには琉球から日本本土に伝わり、三味線の起源の一つとなった。三線の別称「蛇皮線」も三味線の発音「しゃみせん」のルーツという。

琉球に根付いた三線は、代々の演奏家や職人による改良と発展を経て、宮廷から民間に普及し、今日では琉球古典音楽や民謡に不可欠的な楽器になっている。

三線の記譜法「工工四」は18世紀の音楽家、屋嘉比朝寄が、中国の「工尺譜」を参考に改編したもの。工工四は文字譜である工尺譜に基づき、押さえる指の位置も記しており、調弦(ちんだみ)が変わると音の高さも変わる。

 

ハワイの三線の音

2018年10月、私はハワイに到着した。ハワイでは京劇愛好家の集まりに参加するつもりだったが、ニシキヘビの皮を使った楽器が持ち込み禁止なことから、中国三弦ではなく人工皮革の琉球三線を持参した。しかし、この三線は、私にとってハワイに「隠された」琉球文化の宝庫を開く鍵になった。

私はハワイ大学で、ノーマン・カネシロ先生に師事して三線の演奏を学んだ。カネシロ先生は故・米国人間国宝の仲宗根ハリー盛松先生の愛弟子で、仲宗根先生が設立した「琉球古典音楽野村流音楽協会ハワイ支部」と「御冠船歌舞団」の音楽監督でもある。思いも寄らなかったことに、沖縄から数千㌔離れたハワイでは、古い琉球音楽と「うちなーぐち(沖縄語)」が途切れることなく伝えられており、沖縄からうちなーぐちを学ぶためハワイにやって来る学生もいる。

1900年、當山久三に率いられた沖縄からの移民が初めてハワイに到着し、各島のサトウキビ農園に入植を開始した。1世紀余りの間に、何代にもわたる沖縄移民が世界各地に広がった。2015年の日本の国勢調査によると、沖縄県の人口は全国の1%強にすぎないが、世界の日系社会では全体の10%を沖縄にルーツを持つ人が占めている。ペルーやアルゼンチンでは9割以上が沖縄系といわれる。他のアジア系移民がアメリカンドリームを夢見て太平洋を渡ったのに対し、貧困、重税、差別、戦争のために故郷に別れを告げた沖縄移民には夢がなかった。

カネシロ先生は以前、第2次世界大戦中にあった出来事を話してくれたことがある。沖縄戦当時、米軍はおよそ3000人の捕虜を沖縄からハワイにある日系人収容所に送った。彼らの故郷は焦土と化し、異国には自由がなかった。人々は絶望し、食事を拒む人もいた。こうした危機的状況に際し、ハワイの沖縄同胞会は三線の演奏家を集め、収容所のゲート前で演奏してもらった。音楽が聞こえると、収容されている人々はカチャーシーを踊り出し、生きる意欲を取り戻したという。三線は希望をもたらしただけでなく、ホームシックを和らげ、人々の命を救いさえしたのだ。

交通や通信が便利になるにつれ、ハワイの沖縄系移民と故郷との交流も密接になっていった。沖縄では、政府が支援するハワイ沖縄系住民に対する海外学生交換プログラムもある。ハワイ大学は、沖縄の文化・芸術に関する研究と教育を行うために、2008年に沖縄研究センターを設立した。毎年9月にはハワイ・コンベンションセンターで2日間にわたる沖縄フェスティバルが開催されている。舞踊や音楽、グルメ、映画、ゲームなどさまざまなイベントが行われ、毎年5万人以上の来場者でにぎわう。しばしば来場するハワイ州知事のデービッド・イゲも、著名ウクレレ奏者のジェイク・シマブクロも、ハワイで生まれた沖縄移民の子孫である。

 

ハワイ大学の学生に三線の演奏を教えるノーマン・カネシロ先生(左)(写真提供・筆者)

 

世界に咲く三線の花

太平洋に並べられたきらびやかな真珠のような琉球は、美しい景色、素晴らしい音楽、陽気な島人、そして激動と苦難の歴史を持っている。日本は19世紀に琉球併合を強行し、20世紀初頭には琉球語を禁止した。琉球は第2次世界大戦中に廃墟となった。人々は大規模な外国侵略に加担しなかったにもかかわらず、塗炭の苦しみを味わった。戦後、米国の占領下で沖縄はまた非常に暗い時代を経験した。厳しい時代の中で、音楽は沖縄の人々にとって心の支えだった。家に伝わる三線は戦火で失われ、人々は米軍が廃棄した空き缶で作ったカンカラ三線を使って、この島の物語を歌い継いだ。

今日の沖縄音楽は、優雅な宮廷音楽と情熱的な民謡を受け継いでおり、故郷への思い、戦争への不満、運命への叫びを託している。普久原朝喜・恒勇、喜納昌永・昌吉、知名定繁・定男、大城美佐子、古謝美佐子など伝統的な歌謡の継承者から、BEGINや夏川りみなど世界的に知られる沖縄ミュージシャンまで、三線の音色で故郷への深い愛を伝えている。

 

この島の土の中 秋に泣き 冬に耐え 春に咲く 三線の花

――BEGIN「三線の花」

 

沖縄音楽が国内外に広く知られるようになるのに伴い、沖縄以外でも三線が人気になり始めた。ポップミュージックに取り入れるミュージシャンが増え、宮沢和史、桐谷健太など巧みに三線を演奏する沖縄以外の出身者も登場するようになった。2018年の沖縄県三線製作事業協同組合の統計によると、沖縄県で生産された三線のうち県内での販売は29%にすぎず、71%は県外で販売されているという。毎年3月4日の「三線の日」には、世界中の三線愛好家が正午に心を一つに「かぎやで風節」を奏でている。

三線の音色は広い太平洋の上を、中国から琉球へ、琉球から日本全国へ、ハワイ、そして全世界へと広がっていった。三線の花は、琉球音楽を愛する全ての人の心に咲いている。人口の多寡にかかわらず、基盤の強弱にかかわらず、あらゆる民族の文化は、無条件で尊重されるに値する。 

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