小倉和夫氏の研究・講演に見る 周恩来の思想と中日関係

2021-01-04 16:17:34

王敏=文

 

王敏(Wang Min)

日本アジア共同体文化協力機構参与

国立新美術館評議委員

治水神・禹王研究会顧問

国際メディア・女性文化研究所副所長

法政大学名誉教授

拓殖大学・昭和女子大学客員教授

 

青年周恩来の足跡を追う

周恩来(1898〜1976年)のめいである周秉徳(1937年生まれ)氏の一行が2012年の桜の咲く頃、周恩来の足跡をたどるために訪日した。その際、一行は当時の東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会の評議会事務総長を務めていた小倉和夫氏の招きに応じて、東京の国際文化会館を訪れた。小倉氏は自著『パリの周恩来 中国革命家の西欧体験』(中央公論社、1992年、吉田茂賞受賞)を周氏らに贈った。

1938年生まれの小倉氏は、東京大学法学部、英国ケンブリッジ大学経済学部を卒業。62年に外務省に入り、文化交流部長、経済局長などを経てベトナム、韓国、フランスの各大使を歴任。その後、2003〜11年に国際交流基金の理事長を務めた。著書に『中国の威信 日本の矜持』(中央公論新社、2001年)『日本のアジア外交 二千年の系譜』(藤原書店、13年)『日本の「世界化」と世界の「中国化」』(藤原書店、19年)など多数がある。

小倉氏が外務省に入った10年後、中日国交正常化がようやく実現した。当時の周恩来総理と田中角栄首相が固く握手する姿は、歴史の大きな一幕として残っている。小倉氏は、国交正常化の準備作業を進めていた日本側の若手外交官の一人だった。2010年に出版された同氏の著作『記録と考証 日中実務協定交渉』(岩波書店第1刷)には、国交正常化に向けた準備と過程が詳述されている。まさに、こうした並々ならぬ経験があったこそ、小倉氏は周恩来の足跡をたどる考えが芽生えたのだ。

日本留学(1917〜19年)を終えた周恩来は、20年にパリに赴き、働きながら学び、共産主義への信念を確たるものにした。欧州留学の4年間は、国の将来を思い、自らの考えを深く練り上げる日々だった。小倉氏はこれに関して詳細な研究を行い、周恩来がパリで学び、働き、暮らした足跡を一つ一つ訪れ、周恩来がパリで交流した人や経験について調べ、細かく分析した上で、『パリの周恩来』を著した。

同書は、周恩来がどのように共産主義思想の影響を受け革命への道を歩み出したか、その精神の歴程について詳しく分析・研究し、青年周恩来の思想形成に関する研究に大きく貢献した。1992年に出版されると、国際的教養の豊かな前途有為の学者に授与される吉田茂賞を受賞。来年の2022年には中国語版が出版される予定だ。

 

深化する中日関係へ提言=

日本から国際社会へ多言語による情報を発信する目的で設立された一般財団法人ジャパンエコー(現在の公益財団法人ニッポンドットコム)と当時筆者が勤務していた法政大学の国際日本学研究所アジア・中国研究チームは、中国人民外交学会と共催で12年3月、「中日公共外交・文化外交の互恵関係深化の総合的討論―グローバル化が進む中でのお互いの参照と連携」と題するシンポジウムを開催した。同シンポに招かれた小倉氏の、日中がどのように難関を乗り越え、互恵関係を打ち立てるかについての発言は、大きな啓示を与えた。

発言で、小倉氏は日中関係の難題である歴史認識問題を切り口に、両国の文化の差異に言及した。また、氏はこう指摘した。中国は王朝がたびたび変わってきた。そのため、政治の制度が激変し、連続性を否定する考え方が生まれた。例えば、「清朝は悪い、革命は正しい」ということを比較的容易に言える。中国の場合、過去を否定しないと新しい王朝は成立しないので、否定することは大事だ。しかし、日本の場合は天皇制という日本のシンボルが1500年にわたって続いている。したがって、過去を全部否定することは、日本人にとってそう簡単なことではない。

次に小倉氏は、第2次世界大戦が終わった後に、降伏文書に誰が調印したかという問題が非常に重要だと考え、次のように指摘した。ドイツは、降伏文書においてドイツ政府は署名していない。降伏文書に署名したのはドイツ軍だった。つまり、ヒットラーの第三帝国は第2次世界大戦で完全に消滅したため、法律的には新生ドイツは過去のドイツと関係がなくなった。そのため、新たなドイツが過去を清算することは非常に意味がある。ところが日本の場合は、軍だけでなく日本政府も降伏文書に署名した。つまり連合国側は日本政府の存在を認め、日本の国家は崩壊しなかった。ここに連続性がある。日本政府はいまだに過去を引きずっている。だから、「天皇の戦争責任はどうなのか」「軍事に関与した一般人はどう向き合ったら良いのか」などの問題で、どうしてもあいまいさが残る。

これについて小倉氏は、「連続性は大事にするが、しっかりと過去を見つめ、反省すべきところは反省する態度を持つことが非常に大事だ」と強調した。また、今後の日中関係に対処する場合、政治・経済と文化を分けるべきだと指摘している。

政治面について小倉氏はこう述べた。日本と日本人は、中国人の考え方、中国が受けた苦しみや損失に対して深く理解する必要がある。「軍国主義者と日本国民は別である」。これは周恩来や毛沢東が繰り返し強調した考えだ。だが、「日本国民も中国人民も共に戦争の被害者である」との観点を忘れると対立が起きてくる。中国は、まさにこの原則で国民感情というものを治めてきたので、日本人は中国が受けた苦しみや歴史をもっと厳粛に受け止める必要があると思う。また、政治的な手段としてのコミュニケーションを中断するのは極力避けることが大切だ。けんかする理由があるからこそ会って話し合うことが大事なのだ。

文化面について小倉氏はこう指摘した。「文化政策を民族精神の発揚手段として使うことを完全に止めなくてもいいが、慎重を期すべきだ。文化財は世界の共有財産である。私は、周恩来が欧州に留学した際、民族主義と個人主義の国際化、国際主義を身に付けられたことを学ぶべきだと思う。いろいろな人が狭い民族主義に陥りやすい。特に文化交流では、『これは日本文化である、日本の文化を世界に広めましょう』ということばかり重視する人が多いが、これは間違いだ。日本の文化を世界に広めるのは、それが世界の共通の財産だからという考えが必要だ。中国文化も同じ。ここが非常に重要な点で、ここを間違うと今後の文化政策は根本から誤ってしまうと思う」

 

東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会の評議会事務総長だった小倉和夫氏(左)と東京五輪の招致や中日関係について意見を交わす筆者(2012年12月、写真・郭蕊)

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小倉氏は、元農林官僚だった小倉武一の長男として、日本帝国主義が侵略・拡張を進めた昭和13(1938)年に生まれた。名前の「和夫」には、そうした世相を直視し、抗議と将来への平和の願いが込められていた。

来日した周秉徳氏を歓迎する会で、小倉氏は自ら紹興酒のカメを開け、「都内で40年物を見つけられず、しかたなく20年物を2本持ってきました。これをもって日中国交正常化40周年を記念します。でも、今日は1本だけで乾杯し、残る1本は王敏さんに差し上げましょう」と語った。すると周氏は、「それを40年後の再会の時まで保存し、その時にまた乾杯しましょう」とユーモアたっぷりに答えた。 

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