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唐から伝わった文化と交流 平城遷都から1300年

 

賈秋雅=文 単濤=写真

奈良の平城京に都が遷されてから今年で1300年。平城京は、中国・唐の都を模して造られ、唐の制度に倣って日本にも律令制が確立された。今年4月23日、復元された大極殿が、平城宮跡にその巨大な姿を現した。これは往時の平城京の繁栄を物語るとともに、千年を越える中国と日本の友好交流を象徴している。平城遷都1300年を機会に、奈良と中国の交流の歴史を振り返ってみよう。

鑑真和上と藤原清河対談図(唐招提寺提供)

藤原京から平城京へ

「日本人の心の故郷」とされている奈良は、中日交流の出発の地とも言える。飛鳥時代の607年、聖徳太子によって派遣された遣隋使の小野妹子は、当時の都、飛鳥京(現在・奈良県明日香村一帯)から出発し、古代の中日交流が幕を開けた。

唐招提寺の西山明彦執事長

都は飛鳥京から694年に、藤原京(現在・奈良県中部の橿原市)に遷った。当時、中国ではすでに律令制が確立され、政治と商業の中心地である長安(現在の陝西省西安)の都は大いに栄えていた。645年の「大化の改新」以来、日本は、中国の先進的な制度や文化を学ぶため、遣隋使や遣唐使を何回も派遣し、日本の律令制を完成させた。

畝傍、耳成、香具の大和三山に囲まれた地に造営された藤原京は、日本史上初の本格的都城と言われ、やはり唐の長安城を模して造られたという。しかし、発掘調査の結果、藤原京の皇宮である藤原宮は、長安城のように都城の北に位置するのではなく、都城の中央に建造されていた。日本に戻った遣唐使が周代の官制を記した『周礼』に「天子畿内」(天子の住居地は都城の中に位置すべし)とあることを伝え、これに基づいて建造された可能性があるという。

しかし702年、日本に戻った遣唐使が長安城について詳細に報告し、藤原京は長安城の壮麗さと比べようもないことがわかった。また、南が高く北が低い地形の中央部に藤原京の皇宮が位置しているため、汚水がその周辺に流れ込んでいた。さらに藤原京は人口が急増し、手狭になった。

このため、元明天皇は和銅元年(708年)、遷都の詔を下し、「平城の地は四禽図に叶い、三山、鎮を作し」とした。そして710年、平城京への遷都が行われたのである。

平城京に移転したあと、有名な阿倍仲麻呂、吉備真備、最澄、空海ら遣唐使や留学生、留学僧が相次いで唐に渡った。航海技術が発達していなかった当時、数千人の人々が命がけで海を渡り、政治、仏学、儒学、音楽、建築などの唐の文明を日本にもたらし、中国と日本との友好交流にも大きく貢献した。

唐招提寺の全景

平城宮跡に復元された大極殿

医や食も伝えた鑑真

遣唐使は中国から文物や制度を持ち帰ったばかりではない。当時、仏教が盛んだった唐から中国の高僧を日本に招いた。『東征伝絵巻』には、753年10月、揚州の延光寺で、高僧の鑑真が遣唐大使の藤原清河ら一行に会見する模様が描かれている。

鑑真和上坐像(唐招提寺提供)日本最古の肖像彫刻。
唐の玄宗皇帝は、鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。藤原清河は鑑真の渡日が外交問題に発展することを恐れ、遣唐使が帰日する際に鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させ、ついに宿願の渡日を果たしたのだった。

これより前の743年に鑑真は、日本の留学僧の栄叡、普照から「戒」と「律」を日本へ伝えるよう懇請された。5回にわたり渡日を失敗して盲目になった鑑真は、753年、ついに日本に上陸した。翌年、平城京へ到着した鑑真は聖武上皇以下の朝野の歓待を受けた。

この年4月、鑑真は東大寺の西に戒壇院を築き、上皇、天皇、皇后から僧尼まで400人に菩薩戒を授けた。これは日本の登壇授戒の始まりである。759年に鑑真により創建された唐招提寺は、律宗の総本山になった。鑑真はいまも日本の律宗の開祖として尊敬されている。

鑑真は日本の医学の発展や庶民の生活改善にも貢献した。

昔の日本人は、ケガをしたら薬草を塗るくらいで、あとは神様にお願いするしか方法がなかった。鑑真は外科手術を日本に伝え、さまざまな漢方薬も持ち込んだ。当時の日本人にとって、漢方薬は不老長寿の薬であった。1940年代まで、薬屋の封筒に鑑真の顔が印刷されていたが、これも鑑真が日本の医学の先駆者だったことを示している。

また、味噌や砂糖、納豆なども鑑真が中国から持ってきたと言われる。唐招提寺の西山明彦執事長によると、柿の木の並木も鑑真の弟子が日本に伝授したのだという。正岡子規に『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』という有名な句があるが、奈良県は、和歌山県に次いで柿の生産量が多い。

「日本の古文書にも、当時、日本にはすでに柿の木があったけれど、木を接木して増やす方法はなかった。鑑真和上のお蔭で柿の並木が日陰をつくり、柿の実は食用になる。医学や暮らしの面でも日本人は大変な恩恵を受け、今でも鑑真和上のご恩を忘れることはありません」と西山執事長は言う。

763年、鑑真は唐招提寺で入寂した。享年76。その死を惜しんだ弟子の忍基が、鑑真の像を造った。その彩色の乾漆像の容貌は今でも生き生きとしていて、晩年の鑑真の、奥深く安定した精神世界を髣髴させる。

空爆回避に努める

鑑真が奈良にさまざまな文化を伝えた千年余り後に、一人の中国人建築家が古都を守るために奮闘した。梁思成である。

中国国家博物館で行われた梁思成銅像の除幕式(写真・段非平)

梁思成は1901年に日本で生まれた。父は中国の革命家の梁啓超で、清末に政治改革を試みて失敗し、日本に亡命した。梁思成は『追憶の中の日本』(本誌1964年6月号で紹介)で、父親が当時の金で一円を寄進し、自分の名を東大寺大仏殿の瓦に刻んだことに言及し、「日本を懐かしむ気持ちは、その瓦のように、『生まれ故郷』の日本の地から離れることはない」と書いている。

1944年、米軍が日本本土を爆撃していたころ、国民政府の「戦区文物保護委員会」の副主任として重慶にいた梁思成は、米軍に対し、奈良と京都の爆撃を中止するよう提案した。梁思成が文化的建築のリストを作成し、その位置を軍用地図の上に記したため、千年の古都は守られたと言われている。それゆえに梁思成は、今でも日本の建築界、文化界から「古都の恩人」と称えられているのだ。

1963年、鑑真の円寂千200年を記念するため、梁思成は周恩来総理の指示を受け、江蘇省揚州の大明寺に鑑真記念堂を建てることになった。彼は何回も奈良へ視察に行き、最後に唐の建築の風格を残す唐招提寺の金堂を模して鑑真記念堂を設計することにした。

2007年12月、いまは故人となったユネスコ親善大使の平山郁夫・日中友好協会名誉会長が、人類共通の文化遺産を守った梁思成をたたえ、奈良に彼の銅像を建てるよう提案した。銅像は今年末に完成する予定で、中日友好の新しいモニュメントとなることだろう。

 

歴史の知恵を現代のパワーに--荒井正吾・奈良県知事に聞く

 

 

人民中国インターネット版 2010年11月

 

 

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