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東日本大震災から2年 仙台に住む中国人たちは今

張迤婕さん 「現場が私を必要としている」

張迤婕さん
日本での滞在歴が20年になる張迤婕さんには日本人の夫との間に2人の子どもがいる。地震発生の翌日、彼女は仙台の国際交流センターに向かった。そして彼女は「私は以前に災害多言語支援ボランティアに応募したことがあります」と申し出た。

センターでは、救援要請の電話が四六時中鳴り響いていた。「電話の多くが中国からの国際電話で、被災地にいる親戚や友人の安否確認の依頼でした。また被災地にいる中国人からは非常に焦った様子で水や食糧、電気がどこで手に入るのかと問い合わせが相次ぎました」

2011年3月15日に中国大使館は張さんと連絡を取り、現地にいる中国人の退避を援助するよう要請した。「南三陸で働いている大勢の中国人の若者たちが津波で家財を流されました。しかし宮城県には、もう大型バスが残っていませんでした。私は、山形県にあるトランスオーシャンバスというレンタカー会社に電話をしてみました。すると佐藤恵美子さんが電話に出られたので、こちらの状況を説明したところ、彼女はすぐにバスの手配に尽力してくれました」と張さんは当時の状況を話してくれた。そして道路状況が不良だったが、ついにバスで被災した中国人たちを迎えに行くことができた。

「彼らの一生懸命な気持ちがひしひしと伝わってきました。彼らがしてくれたことは、一般的な業務の範疇を明らかに超えていました」

18日に最後のバスが仙台に到着した。この頃、福島原子力発電所で問題が続発しているという噂が絶えなかった。張さんは、「私にも一緒に退避するように促す人もいました。しかし私の夫は歯科医で、遺体の身元確認作業に従事しており、ここを離れることはできません。そこで夫は私を子どもと共に先に退避させようとしました」と語った。

しかし、張さんは最終的に残る決定を下した。

「バスが出発する前に私は県庁で、押し寄せてくる外国人たちに整然と応対し、手続きを行っている県の職員たちを見ました。私は職員たちに、原発の問題で外国人がみな退避していますが、皆さんは原発のことが不安ではないのですかと尋ねました。すると彼らは、不安といえば不安だが、ここでの業務に私たちが必要だからと答えました。私はその言葉を聞いて大変励まされました。現場が私を必要としていると感じました」

張さんは、最終的に二人の子どもを友人に預けて、彼らを中国に連れて行ってもらった。そして彼女は夫と共に仙台に残った。

張さんによると、仙台に残る決断を下した中国人や華僑も大勢いたそうだ。ある中国物産店の店主は、地震で深刻な被害を受けたにもかかわらず、ボランティア活動に参加し、避難所に出向いて炊き出しを行った。中国料理店を営む張紅艶さんは、1週間連続で、店付近の避難所に無料で食事を提供した。

東北大学の中国人留学生たちと楽しく語らう宮城県日中友好協会の江幡武会長(右)。震災後、中国人留学生仙台学友会は、宮城県日中友好協会の多大なる協力によりボランティア活動を組織することができた 震災後の宮城県在住外国人の状況について話す宮城県国際化協会の大村昌枝先生(右)。多くの文化が共生している社会において、外国人住民も地域社会の一部であり、彼らがもっと力を発揮できるような環境を作る必要があると彼女は語った(写真・王焱)

仙台が落ち着きを取り戻した後、張さんは宮城県外国人相談センターの相談員になり、日本に来たばかりの外国人が、日本社会に首尾よくなじめるようにサポートしている。2012年8月、張さんは地元の中国人たちと共に「宮城華人華僑同舟会」を設立し、普段はグループとして地元の日本人たちと友好を深め、非常事態が生じた時は、連絡を取り合い互いに助け合っている。

「会員の大多数が、日本に10年から20年ほど定住している中国人で、国際結婚された方もいます。地元とまた地元に住む人々と解けない固い絆で結ばれています。中国と日本の2つの文化の中で生活していますが、世代を超えた中日両国民の友好を祈り求めて止みません」

 

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