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反省と不戦の良心を歌い継ぐ
『悪魔の飽食』合唱団・9月中国公演決定

 

于文=文

2012年6月17日、石川県立音楽堂で行われた第23回全国縦断コンサートでは、団員数が過去最高の469人となった(写真提供・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団)

 

日本は中国を侵略する中で、多くの「負の遺産」を残してきた。その象徴が、今日の中国・東北部で関東軍の731部隊が行った細菌戦・生物兵器の研究と人体実験である。この実態は、作家の森村誠一氏が書いたノンフィクション『悪魔の飽食』に詳しく紹介されている。

それを混声合唱曲にして歌い継ごうという動きが1984年から始まり、多くの聴衆の共感を得て全国に拡大、海外公演も行われた。そして戦後70周年に当たる今年9月、日本全国から集まった200人以上の大合唱団が、731部隊の遺構の残る黒龍江省ハルビンで21回目のコンサートを開く。

「歌うことで世の中がすぐに平和になるわけではない。しかし人の心は動かせる」という、作曲と指揮を担当した池辺晋一郎氏の言葉を胸に、団員たちは真摯に歴史と向き合い、反省と不戦の誓いを歌い上げ、中国の聴衆と共感を分かち合おうとしている。

 

厳戒態勢の初講演

『悪魔の飽食』楽曲化の立役者であり、日本のうたごえ全国協議会会長の田中嘉治さんは、「『悪魔の飽食』との縁は森村先生への講演依頼に始まりました」と語る。

全世界に反核運動が広まりつつあった1982年当時、日本でも、音楽や映画などを媒体にして反核運動が展開されていた。田中さんが当時在籍していた神戸市役所センター合唱団も反核署名運動を行っていたが、さらに活動を拡大しようと、話題の大ベストセラー『悪魔の飽食』を取り上げ、「森村誠一とともに平和を考える音楽と講演の夕べ」というイベントを企画した。

粘り強い交渉の結果、ようやく森村氏の出演の承諾をもらうことができた。ところが11月のイベント直前の9月15日、ある新聞が『悪魔の飽食』に一部写真の誤用があると指摘。それをきっかけに、右翼が森村氏の自宅に街宣車で乗り付ける、扉にペンキをかける、数知れない妨害電話をかけるなどの迷惑行為を繰り返す騒ぎになったのである。週刊誌には「森村誠一の命が狙われている」という記事まで掲載された。それでも森村氏の参加への意志は揺るがず、講演当日には7㍍の壁にも匹敵するという防弾チョッキを着て、住まいの厚木市からはるばる神戸までやってきた。

 

2013年7月21日、ロシアのチャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院で行われた公演では、聴衆からスタンディング・オベーションが送られた(写真提供・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団)

 

田中さんは講演当日の様子をしみじみと振り返る。「朝から私のところに森村誠一はいつ来るのかという電話がじゃんじゃんかかるし、会場の国際会館の周りには街宣車がぐるぐる回っているしで、大変緊張させられました。新神戸駅では団員が一般人のふりをし、いざという時に先生をお守りしようと待機していました。ところが予定の新幹線に先生が乗っていない。私たちの慌てようといったらありませんでした。先生は難を避けるために、あえて事前に予定していた『ひかり』ではなく、次の『こだま』に乗ってやってきたのです」

森村氏が公の場で『悪魔の飽食』について講演をするのはこれが初めてであり、大きな注目を集めた。2000人収容の会場には2300人が詰めかける大盛況。講演終了後の会場は大歓声で沸き返り、団員たちは感動の涙を流した。「実は万一に備えて、実行委員は防衛の訓練を積んでいました。森村先生に刃物を持った人が襲いかかってきた時には、体を張る覚悟でした」と田中さんは当時の緊張を語った。

 

合唱組曲はこうして誕生

2年後の1984年、田中さんは俳優座が『悪魔の飽食』をベースに創作した『荒野の落日』という劇を上演するとのうわさを聞いた。演劇が可能なら、歌にもできるのではないかと思い立ち、森村氏へ詩の創作を依頼したところ、16篇にも及ぶ長大な詩が田中さんへと届いた。

次は曲である。つてをたどって、作曲家の池辺晋一郎氏との出会いを果たす。開口一番「いい詩ですね」と言った池辺氏も、さすがに16篇は長すぎると指摘。詩を短くして定型詩にすることで、内容に対する聴衆の距離感も近くなろうと提言した。詩を短くする作業は神戸市役所センター合唱団の団員が分担してあたり、それを池辺氏が七つの組曲として完成、すぐに公演という超過密スケジュールでの初演となった。

「ところが公演1週間前、録音を聴いた池辺先生に『こんな歌い方では僕は許可しない!』とバッサリ言われてしまいましてねえ」と、田中さんは苦笑する。「とにかくテーマさえ良ければいいと思っていたので、合唱のレベルにまで思い至らなくて。残り1週間で猛練習でした」

本番当日、原作の基となったデータを取材した、元新聞記者の下里正樹氏は涙を流し、指揮をつとめた池辺氏も感動で身震いが止まらなかったという。ステージに立つ団員の目にも、観客席でハンカチが何枚も動いているのが見てとれた。この成功は、『合唱組曲 悪魔の飽食』が世間に知られるきっかけとなった。

 

人を引きつける「重力」と「魔力」

合唱のテーマは「戦争」、しかも残虐行為を扱った重い話である。さらに右翼からの脅迫など身の危険があるにもかかわらず、『合唱組曲 悪魔の飽食』が聴衆の心を打つのはなぜか。田中さんは語る。

「『悪魔の飽食』の大きな成果は、アウシュビッツと並ぶ世界の二大悲劇と呼ばれる731部隊を形にしたことだと思います。戦争体験には4種類あると言われます。一つは戦場での武勇伝を描いた『戦闘体験』。二つ目は広島、長崎大空襲に代表される『被害体験』。三つ目は数が少なくなりますが『加害者体験』。四つ目はもっと数少ない『抵抗体験』です。主に語られるのは被害体験で、加害体験を語ったものは非常に少ない。日本人は終戦間近の空襲や原爆で、銃後の人々も確かに被害を受けましたが、太平洋戦争開戦からさらに遡る日本の中国に対する侵略戦争を考えると、加害の時間のほうが長いのです。この加害の記録を歌ったものとして、『悪魔の飽食』は稀有なものであり、しかも一流の作曲家と一流の小説家によって創り上げられた『加害』の作品としての存在意義があります」

また、田中さんはこの作品には「重力」と「魔力」という大きな力があるとも指摘する。「重力」とは作者の森村氏、作曲者の池辺氏自らが率先して全国縦断公演を行っていること、作品のテーマである「命の大切さ」という重みに加え、関係者の情愛、情熱、絆の重さを指す。「魔力」とは『悪魔の飽食』を歌えば平和の花が咲くという試みのほとんどが成功していること、歌うことで価値観が変わり、命の尊さや平和への愛着を武器に、逆境への抵抗も可能にできることを指す。そして、この「重力」と「魔力」のおかげで今がある、と田中さんは言う。

 

団員の思いが全国で歌い継がれる

 

現在『悪魔の飽食』全国縦断コンサートでプロデューサーを務める持永伯子さんが初めてこの作品と出会ったのは、1990年のことだった。日中友好協会創立40周年記念イベントの実行委員に選ばれた持永さんは、『悪魔の飽食』の合唱を記念イベントにしたらどうかと音楽評論家の友人からアドバイスされた。音楽関連のイベントは全くの未経験、右も左もわからないまま池辺氏との交渉を重ね、何とか指揮者としての出演を取り付けた。その後も池辺氏のアドバイスに従って練習指揮者やピアノ伴奏者を何とか確保し、練習がスタートした。

「練習会場に『悪魔の飽食・第1回練習会』と看板を立てたんですけど、誰も入ってこないんですよ。そんな恐ろしい看板には、誰だってためらいますよね」と持永さんは笑う。「団員募集も大変でした。とにかく知ってもらわなきゃとチラシを作って、リュックサックにたくさん詰めて、頭を下げて回りました」。そのかいあって、口コミを中心に話が広がり、団員数も何とか64人にまでこぎつけることができた。

本番は1200席が満席の盛況だった。打ち上げの場で団員から、「1回きりではもったいない」「合唱団を解散したくない」という声が上がる。その一人、縣政四さんはいま「『悪魔の飽食』をうたう静岡合唱団」の団長で、三島合唱団の指揮と編曲をつとめていた2004年頃、神戸市役所センター合唱団による『悪魔の飽食』のCDに出会った。団員は公演に猛反対したが、持永さんのサポートもあり、2006年に三島市で公演を実現。当日は三島市長もあいさつに駆けつけた。

今や全国的に広がりを見せている合唱団だが、縣さんのような音楽に関係する人は少なく、ほとんどが素人。合唱初体験という人も少なくない。神奈川県で団長を務める吉池俊子さんもその一人である。吉池さんは、大学で教えながら東南アジアの戦争被害者を横浜に呼び、証言を聞くという活動を22年間続けており、この活動を通して持永さんと知り合った。

吉池さんは、歌で伝える戦争の事実には、体験者の生の声よりもさらに効果的な側面があると考えている。「戦争被害者の高齢化で来日が難しくなってきたので、現地でビデオ録画したものを講義に使ったところ、『こっちのほうが良かった』という学生が少なくありませんでした。恐らく体験者に面と向かって語られるのは生々しすぎると感じるのでしょう。この体験から、歌という間接的な媒体で訴えかけるほうが、逆に人の心に残るような気がするんです」

持永さんの努力が実を結び人から人へ、『悪魔の飽食』に魅了された団員それぞれの思いが全国に広まり、今や日本各地で歌い継がれている。

 

日本全国縦断コンサートは、今年の群馬公演で25回目。数々のチラシは、 平和への祈りが全国に広がっていることを物語る

 

中国の人々と共鳴したい

今年、合唱団は17年ぶりに中国黒龍江省のハルビン市で公演を行う。ハルビン市は合唱団が初めての海外公演を行った記念すべき場所。17年前の公演にも参加した団員の一人、岩瀬三郎さんはその時の様子を語る。「当時は日本全国縦断もまだ始まっておらず、いきなり中国とは、よく実現したなと思います。非常に改まった気持ちで公演に臨み、緊張で汗びっしょりだった記憶がありますね」

公演では中国語に翻訳した歌詞の字幕を会場に流した。岩瀬さんは聴衆の反応から、曲が持つすごみを実感したという。「第一章を歌い終えた時、会場が静まり返って物音ひとつ聞こえませんでした。あんな体験は初めてです」

84歳の馬原郁さんは今回の公演訪中団の最年長者で、17年前の公演にも参加した。侵華日軍731部隊罪証陳列館に行った際、戦争体験者の団員たちは、犠牲者の写真を見てぼろぼろと涙を流したという。京都出身の馬原さんは、「陳列品には宇治でつくった宇治型爆弾もありました。京都ではこんな悪いことをしていたのかと、日本の悪行が身に迫ってくるんです」と今度の公演の意義を語る。

馬原さんは、団員でも数少ない戦争体験者としての思いをこう語る。「今は戦争体験者が少なくなりましたから、私が戦争体験を話しても、若い人にとってはうるさいだけでしょう。しかし、事実は事実として語り継がなければいけないと思います。陳列館には、人間の首を綱でつなげて並べたものを、日本兵が笑って見ているという非道な写真もありました。こういう事実を伝えていかないと、今の若い人は戦争の悲惨さを知らないままです。それを伝えるのが自分の役割なのだと思っています」

「過去のことは絶対に忘れてはいけない。それが未来にとっての教えとなる」という意味の言葉が、『悪魔の飽食』の原詩にある。731部隊という自国の過ちを発信し続ける日本人が数多くいる事実は、真実をありのままに語ろうとする良心が、人々の心になお生き続けていることを物語っている。

『悪魔の飽食』を音楽と詞で表現する合唱は、活字とはまた違う力を持つ。池辺氏のタクトに応える団員たちは「歴史の事実」と向き合い、反省と不戦の誓いを中国の人々と共有しようとしている。

 

世界の平和のために

(侵華日軍731部隊罪証陳列館リニューアルに宛てたメッセージ)

池辺晋一郎

 

 

あの戦争が終わって、70年が経ちました。

あの戦争で人類は、それまでのあまたの戦争に増して、かけがえのないことを学びました。それを次世代へ伝えることを怠ってはならない。戦争を知らない世代が学習によりその真実を知る―それができることこそ、人間の叡智だと思います。

かつてハルビン郊外にあった731部隊。そこが、中国だけでなく、日本だけでなく、人類全体が等しく忘れてはならない戦争の罪の象徴であることは、疑う余地がありません。その「大切な記憶」のために、侵華日軍731部隊罪証陳列館がリニューアルされ、そこで合唱組曲「悪魔の飽食」が鳴り響く―何と重く、何と大きな意義のあることでしょう。

ドイツの元首相ブラントも現首相メルケルも、ポーランドやイスラエルで、ナチスの犠牲になったユダヤ人に謝罪しました。昨秋のノルマンディ作戦70年記念式典で、旧連合国首脳の列にメルケルも加わっていました。驚くべきことです。明確な謝罪を経たからこそ実現した「歴史の美しい修正」だと思います。

ところが、謝罪を自虐と考える人たちがいる。これは、歴史を前へ進ませない行為にほかなりません。

合唱組曲「悪魔の飽食」には、大切なメッセージが込められており、私たちはその発信を、自分たちの使命と感じています。

この作品の原風景の地でその発信ができることを、侵華日軍731部隊罪証陳列館およびハルビンの皆さまに感謝しつつ、心を込めて歌います。

戦争が繰り返されないために。世界中が真の平和の中で静かにありつづけるために。

 

人民中国インターネット版 2015年7月13日

 

 

 

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