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『君よ憤怒の河を渉れ』で「真由美」を演じた 女優 中野良子 さん―両国関係の「真優美」な未来を共に

 

聞き手=王衆一 写真=陳克

 

『君よ憤怒の河を渉れ』で「真由美」を演じた中野良子さん 

11月14日、北京市内にある北京外国語大学で、俳優・高倉健さんの一周忌に合わせた「高倉健映画回顧展」及び映画『君よ憤怒の河を渉れ』の上映会が、国際交流基金北京日本文化センター、北京日本学研究センターと在中国日本大使館の共催で開かれた。イベントには、この作品で高倉さんと共演した女優の中野良子さんも参加し、中国の観客と交流した。 1978年、文化大革命後に初めて上映された日本映画として「君よ憤怒の河を渉れ」は中国で大ブームを引き起こした。無実の罪を着せられた検事が命を掛けて身の潔白を証明しようとする物語は、文革が終わり冤罪からの名誉回復に苦しんでいた中国社会に共感され、数億人の観客が主人公「杜丘」とヒロイン「真由美」と共に「憤怒の河」を渉ったのだった。それから37年、北京を訪れた中野さんはイベントの合間に本誌の単独インタビューに応じて、高倉健さんの人柄や撮影の際のエピソードを披露し、自ら携わった日中友好事業を振り返り、日中関係や日中友好の未来についても語った。

――高倉健さんが亡くなられて1年になりましたが、ファンの皆さんは依然として健さんをしのんでいます。共演した経験がおありの中野さんは、高倉健さんにどのような印象をお持ちですか?

中野良子:健さんは役の中にずっと入ったままで、それを維持したいという思いが強い方だと思いますね。初めてお会いした時の強烈な印象が残っています。お互いに10メートルぐらいの距離で立っていたのですが、プロデューサーが紹介してくださったのに二人は見つめ合ったまま、まったく動けなくなっていたのです。当時は分かりませんでしたが、今ではいくつか理由が思い当たります。その一つは健さんが午前中にもう撮影に入っていらっしゃいましたから、もう「杜丘」になっていて急には現実に戻れず、その物語に包み込まれて動けなかったのかもしれないということです。その集中力とか、役をつくる心理みたいなものが体中から放たれていて、それは映画を通じて皆さんにも伝わったのではないでしょうか。また、私が結婚した時に健さんにお知らせしたところ、数日後の早朝に何百本もの真っ赤なバラの花が届けられたんですね。健さんらしくないので驚きました。今思えば、映画の続きをまだ一緒にやっているような感じだったのかもしれません。人には分からない深い思いを心の底に持っている方ですね。

――映画撮影時のエピソードがあったら教えていただけますか?

中野良子:中国の皆さんは本当に「真由美」が「杜丘」を馬で助けるシーンが大好きのようですが、実は健さんは乗馬が得意なんです。しかし、映画の中では検事ですから上手なわけがありません。逆に、私は子どもの頃から乗馬をしているという役柄でしたが、時間が足りずそれほど練習していませんでした。撮影現場は木の枝も突き出ている曲がった道で、馬も光るカメラの方に向かうのはいやがるので、撮影前は本当に怖かったですね。でも、本番では乗馬の得意な健さんと一緒に乗ったからすごく安心感がありました。そういう協力関係や信頼感で、自然に「あなたが好きだ」というセリフが言えるわけです。そういったものがやっぱり画面を通して皆さんに伝わったのかなと思いましたね。

――1978年、映画『君よ憤怒の河を渉れ』は中国で上映され、多くの観客を魅了し、全国でセンセーションを巻き起こしました。中野さんも中国で一気に有名になり、中国を訪れることにもなりました。初めて訪中のことはまだ覚えていらっしゃいますか?

中野良子:はっきりと覚えています。初めて中国を訪問したのは今から40年近く前です。あの頃の北京空港はまだ建物も小さかったんですが、飛行機を降りたらものすごい歓迎ぶりで、まるで宇宙の別の星に来たのかと思いました(笑)。空港から天安門広場まで、沿道の両側に横断幕や旗が、走っても走ってもずっと飾ってあって「あ、どこかの大統領の訪問と同じ日に当たったのね」などと思ったんですよね(笑)。やがて、私たちのためであることが分かりましたが、たくさんの方が中国語で「真由美、真由美」とおっしゃったから、「チェンユーメー」という音が体から消えなくなったんです。夜寝ても寝られないんですね。「チェンユーメー」の鳴りっぱなしです(笑)。

――今日は中野さんのためにあるサプライズを持ってきました。当時の記憶を一層よみがえらせるかもしれません。これは『人民中国』1981年の1月号です。中野さんが中国で大歓迎を受けたことが報道されています。

中野良子:(雑誌を手に取る)うわあ、懐かしい!これは上海の魯迅公園ですね。当時は大勢のファンが来てくださいました。バスから降りる時にも、バスが揺れていたんですよ。降りたら、周りに人がいっぱいで、本当に押しつぶされるかと思いました。身長が2メートルぐらいの男性が私に付いてガードして下さったから無事に生き延びましたけど(笑)。皆さんは「チェンユーメー、チェンユーメー」と叫んでくれて本当に感動しました。その後、「チェンユーメー」には二つの書き方があることが分かりました。一つはもちろん「真由美」ですが、もう一つは「真優美」で、中国語の褒め言葉であると知ったのです。当時、中国の方々の精神世界の美しさに感銘を受けましたね。

 

中野さんが中国で大歓迎を受けたことを報じた『人民中国』1981年の1月号の記事 

 

――『君よ憤怒の河を渉れ』はすでに映画というジャンルを越えて、当時の中日相互理解のシンボルと友好交流の懸け橋にもなりましたね。中野さんもこれをきっかけに、30年余りにわたって中日の友好事業に力を尽くして来られました。何が中野さんを支えてきたのでしょうか。

中野良子:初めて中国を訪問した時に大きな歓迎を受け、これから世界が大きく変化すると感じ、日中両国の相互理解と平和交流のために何を準備すればいいんだろうと思いました。 周恩来総理がご存命の時代、中国はまだ世界との交流が非常に少なく、多くの中国の人たちが世界とうまく交流できるように、早く扉を開けるために、日本の若者に早く来てほしいと何度も願ったそうですね。その遺志を奥様の鄧穎超先生がお継ぎになりました。鄧穎超先生が亡くなられる少し前に「中野良子さんへ:中日友好を代々伝えていってください」というメッセージを残してくださったんですね。それが私にとって大きな励みとなりました。 私は戦争が行われたさまざまな場所へ行ったことがあり、日中両国の国民が相互理解、平和交流を堅持する理念を次の世代に伝えていく重要性を強く感じていました。それは1995年に秦皇島に小学校を建てるきっかけにもなりました。私は王孝賢先生(元中国人民対外友好協会副会長)と現地政府から支持をいただいて「希望小学校」の建設を援助しました。大人になった「中野良子小学校」代々の卒業生は、きっと社会のどこかで一所懸命頑張っていると思います。

 

鄧穎超女史が中野さんに残した「中日友好を代々伝えていってください」とのメッセージ 

 

――中野さんは一作の映画を通して、中日友好と相互理解の種を蒔き、そして、教育支援など中日友好の活動もなされました。現在の中日関係は中野さんの初訪中の時とかなり違います。中日関係の未来についてどうお考えですか。

中野良子:現在の両国関係はかなり冷え込んでいますけど、明日は仲がよくなると思います。ただ、両国の未来には、これからも風が吹く、雨が降る、精神的に泥水になる、そういうことは起きるでしょう。そうした時のために、自分を見つめ直す、相手の立場からみる、宇宙という大きな視点から世界をみる、という三つの眼差しを常に持つことが大事ですね。そして、日中間の政治、経済、文化、すべての土台をもっとしっかりしなければならないと思います。当時は日中関係があまりにも早く動いたんですね。あまりにも早く動いたから、土台がまだできていないうちに、その上に家を建てた印象があります。だから、もう一回最初に戻って、土台づくりから、老若男女が参加できるような枠組みをつくって、両国関係の「真優美」な未来を共に開きましょう。

 

 インタビューする本誌王衆一総編集長(右)に笑顔を見せる中野良子さん

 

――今日はお忙しい中、インタビューを受けていただき、本当にありがとうございました。今中野さんがおっしゃっられたように、中日両国民は友好交流を深め、民意の土台をしっかりしなければなりません。両国民は手を携えて「相互理解」の河を渉りましょう。

 

 

人民中国インターネット版 2015年12月7日

 

 

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