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馬宿が物語るキャラバンの昔

 

馬宿を訪ねる

 

「栄発馬店」でかつて使用していた石でできた水槽

 広くて平らな道と、対向車線を飛ぶように走り過ぎてゆく車を見ていると、ここにかつてキャラバンの通った密林の中の茶馬古道があったことを想像するのは難しい。ここ数日、朝から晩まで毎日走り続けているが、いつになったらキャラバンが通った古道の跡を見つけ出し、彼らが泊まった馬宿にたどり着けるのか。

 

当時、馬方が宿泊した客室
 運転手の梁さんは、雲南省のテレビ局の映像カメラマンで、数々の場所を訪れた経験があり、現地の歴史文化や風土、風習などにとても詳しい。プーアル県(2007年4月8日よりプーアル県に改名)の県城を通り過ぎたころ、私が古道と馬宿についてあれこれと尋ねるのを聞いていた彼は、ふとかつて訪ねたことのある馬宿を思い出し、近くの村にあるので行ってみないかという。願ってもないことだった。彼はすぐにトランシーバーで先導車と連絡を取り、承諾を求めると、馬宿を目指してハンドルを切った。

 

 車は、何度か角を曲がってから止まった。馬宿の近くに着いたと聞くなり、嬉しさのあまり車から飛び降りた。そこからは装備を整え、歩いて山に登ることになっている。ところが天気が急変し、雨が降り出した。雨具で撮影器材を包み、雨で服が濡れるのも構わず、ぬかるむ道を進んでいった。

 

「うちの菜園は、かつて馬屋だった場所です」と説明する李さん
 しばらくすると、遠くに、緑に隠れるようにしてぽつんと山間にたたずむような村が見えた。煙がゆらゆらと立ちのぼり、雨の中にぼんやりとかすんでいる。60世帯あまりからなるというこの小さな村が、納科里村であった。プーアル県城までわずか24キロ、ちょうどキャラバンが一日で歩く道のりである。かつてプーアル県と思茅の間を往来してここを通るキャラバンは、かならずこの村に宿泊した。そのため、ここでは馬宿が繁盛したのであった。

 

李家に残されているさまざまな馬宿の用具
 梁さんの案内で、村の最も高い所にある家を目指した。庭がとても広く、その一角に雨水でいっぱいになった石でできた楕円形の水槽が目についた。おそらく馬に水を飲ませるために用いていたものだろう。そんなふうに思いをめぐらせていると、その家の主人が家屋から出てきて、不思議そうなまなざしで私たちを眺めた。私たちの来意を知ると、彼は顔をほころばせ、話をしてくれた。

 

菜園に残る石畳

 その家の主人である李天林さんはハニ族(哈尼族)、妻の刀会株さんはダイ族だという。息子が二人、娘が一人いる。長男はもともとプーアル県城の自動車修理工場で働いていたが、現在では村に戻って農業に従事し、果樹の接ぎ木に取り組んでいる。娘は思茅(プーアル)の茶芸館で働いている。

 

 茶馬古道の話になると、李さんは興奮してしゃべりだした。「今私たちの住んでいる家は、かつて『栄発馬店』という馬宿でした。馬宿は3代にわたって受け継がれてきましたが、私の祖父がその3代目でした。祖父はもともと『馬鍋頭』と呼ばれる馬方の頭でした。買い付けや支払い、連絡などを請け負うだけでなく、食事のときには自ら料理をして、馬方たちに配っていたそうです。『馬鍋頭』という呼び方はそのことに由来するのでしょう。祖父は『馬鍋頭』で儲けたお金でこの馬宿を買い、3代目の主人となったのです。かつては訪れる人が多く、非常に賑やかな馬宿でした。最盛期には百頭あまりもの馬を擁す大所帯のキャラバンを受け入れ、世話したこともありました」

 

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