明代の城壁に囲まれた 辺境要塞の地スウンチュ

 



 唐の太宗(627~649年)時代、唐王朝と青海・チベット高原に存在した吐蕃王朝は、スウンチュ(松潘、当時は松州と呼ばれていた)で激しく戦った。そして吐蕃王朝の首領ソンツェンガンポは、唐に使者を遣わして和親を願い出、唐の太宗は、文成公主をソンツェンガンポに嫁がせた。その後、スウンチュは漢民族とチベット族をつなげる貿易集散地になり、にぎやかで豊かな町になっていった。

 

明代の城門

 

スウンチュ古城の要路。南北に走っているのは中央の大通り。中央に見えるのは古松橋で、遠くは延薫門
九寨溝から南へ伸びる、まっすぐな道を歩いていると、雄大なスウンチュの北門・鎮羌門が、遠くから見えた。この城門の奥行きは、北京の故宮の午門よりも1.5メートル長い31.5メートルで、中国に現存する明代の城門の中では、最大のものである。

 

スウンチュ古城は、唐の武徳元年(618年)に建造が始まり、明の嘉靖5年(1526年)には約千メートルの外城が増築され、西側の城壁も山の麓から頂上まで延長された。そして史書に書かれているようにスウンチュは、「岷山を扼し、長江の上流を抑え、東は黄河が流れる甘粛に接し、西は西康・チベットに通じる」「屏風のように四川を蔽い、辺境を鎖す」要衝になった。

 

鎮羌門の通路の奥行きは31.5メートルある
スウンチュの古城には、7つの城門がある。東の覲陽門、南の延薰門、西の威遠門、北の鎮羌門、そして西南の山の麓にある小西門と、外城にある臨江、阜清という二つの城門だ。

 

早朝、覲陽門にやって来た。積み上げられたレンガの色の違いから、城門の通路と周りの城壁だけが昔の姿を留め、ほかは近年修復されたことが分かった。城門の前の広場では、20人近くの人が扇子を持って踊りの練習をし、城門の前の道路は、車や馬に乗ったチベット族の人たちが頻繁に行き交っていた。

 

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