盂蘭盆会を巡る

 

写真③

写真④



著者の発掘した地方史(写真③)

 

文物局職員の李さんに入場料2元を払った。彼は、私がなぜ童子寺について尋ねるのかいぶかり、私のほうでは、なぜ彼がいぶかるのかと不思議に思った。ほどなく、この寺はここ数年発掘が始まったばかりであったことがわかった。外国人がどうしてこの仏教遺跡を知っているのか、なぜもっと有名な道教洞窟に興味を示さないのか、というのが李さんの疑問であったらしい。私は円仁日記のことを彼に話した。すると彼は、自分のパソコンに収録してある写真を見せて、発掘遺跡で何を探せばよいか、どれが北魏の遺物で、どれが唐の遺物かなどを教えてくれた。写真を見ているうちに心臓が高鳴ってきて、私はタイムカプセルのような現場に一刻も早く出かけたいと思った。(写真・梁志軍)

 

童子寺遺跡の遠景(写真④)

 

私は嶺づたいに小道をたどり、続いて数世紀を経た石段を下りた。下りるにつれて、山を削り取った部分が見え、そこに巨石群が立っているらしかった。これが李さんが教えてくれた、支柱なしに立っている頭部のない巨大な仏像群の一部なのだろうか。童子寺が、この人里離れた山の斜面で、その断片を唐代のままに凍結させていようとは、私は思ってもいなかった。円仁は、二層の楼殿が大きな仏像でいっぱいに満たされていたと書いている。今日、敷地内に残されている遺物から察するに、ここは野外に置かれた大きな仏像群、堂宇、石窟などを備えた巨大な伽藍であったようだ。この遺跡に立つと、かつての伽藍配置を眼に浮かべるのは簡単だった。

 

写真⑤

写真⑥

写真⑦



童子寺の仏像彫刻(写真⑤)

 

 円仁は、西暦556年建立のこの寺の縁起を記した石碑を読んだと詳しく述べている。

 

 「礼禅師がこの山に来て住んだ。禅師は突然五色に輝く彩雲が地上から空に立ち昇り、あたりをあまねく照らすのを見た。彩雲の中には四人の童子が青蓮の座に座って遊んでいた。そのとき大地が響動して崖が崩れ落ち、崩れ落ちた崖の上に阿弥陀像が出現した」。この霊験によって礼禅師は寺を建て「童子寺」と命名した。

 

このあたりの石は柔らかく、外気の変化に耐えられないため、ここにある6つの石窟の彫刻はかなり風化している。この写真は、小さな仏像彫刻と、崖面に残った菩薩像の一部である。

 

童子寺の仏龕(写真⑥)

 

唐代に彫刻されたこれらの仏像は、遠い昔の聖地の雰囲気をよく伝えている。他の遺跡には壊れた陀羅尼経石柱、蟠龍を彫った石柱などがある。7世紀、玄奘三蔵の高弟であった慈恩大師がここにやってきて、初めて唯識論を講義したと、円仁は記している(慈恩大師とは窺基法師[632~682年]と同一人物。長安の慈恩寺に住み、死後「慈恩大師」の諡号を授けられた。法相宗開祖。日本では奈良の薬師寺がこの宗派を継承している)。

 

童子寺遺跡の石柱(写真⑦)

 

私は、これらの不思議な石柱が何であろうかと一生懸命考えた。石碑であったのか、それとも家屋の柱であったのか? やがて「龍骨」であることが判明した。龍骨とは大きな塑造仏像の内部の骨組みを支えていたものである。円仁は、結跏趺坐した阿弥陀仏像は高さ17丈(約53メートル)、横幅100尺(約30メートル)と記している。

 

 

阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『今よみがえる唐代中国の旅 円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』(ランダムハウス講談社)にまとめた。5洲伝播出版社からも同著の英語版、中国語版、日本語版が出版されている。





 

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