汾河に沿って続く旅

慈覚大師円仁 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた 


円仁と弟子たちは山西省南部を精力的に歩いていった。その足跡をたどるため、私は詳細な山西省地図帳を調べ、この地域の唐代歴史地図と比較してみた。驚いたことに、円仁日記に出てくるほとんどの地名を見つけることができたのである。一行のたどった道筋に沿って線を引くのは簡単だった。

太原府を通過した後、円仁の足取りは南西に曲がる。840年旧暦7月27日、一行は雨花寺で昼食をとった(今は晋祠廟境内にある)。そこから一行は現在の清徐市を通過した。 一行は7日夜、晋州(現在の臨汾市)に到着、市場の西にある普通院に宿泊した。行路は汾河に沿って続き、現在の侯馬市の西で河沿いに真西に曲がる。10日の日記には、「早朝出発して西へ行くこと30里、稷山県で休憩した。県城より稷山を遠望する。ここから15里の地点では、いなごが路上に群れをなしていた」とある。  「11日、南西に行くこと16里で新橋渡しに着き、汾河を渡った」。現在の河津汾河橋は1978年に架けられたものである。ここでは河は、イギリスの田園風景に見られる小川のように穏やかに流れている。そこから道は、浸蝕によってできた深い谷のある黄土の丘へと登る。丘の上には忘れられた仏塔が残っていた。円仁一行は、その夜は現在の栄河に泊まった。

「13日、……中食の後……河中節度府に到着した。北から来て舜西門を抜け、続いて蒲津関に到る。関所に着いて点検を受けて後、黄河を渡った」。河中節度府は現在の永済市に当たる。そこから一行は、城壁に囲まれた蒲津関所に入り、旧暦8月13日に河を渡ったのである。

ここから、円仁と弟子たちは真西に歩いて高陵に着き、そこから南に向きを変えて長安を目指した。一行が主要道路に向かったちょうどその地点で、役人、造墓工、兵士らの長い行列にぶつかった。これは薨った文宗皇帝の陵をようやく完成し、埋葬を終えた行列であった。円仁は、行列の長さと参列者の数に驚いている。

「19日、県城の南で長安に帰る山陵使の行列に出会った。この使者は文宗皇帝の埋葬を司ったのである。造墓工、兵士らの列は延々五里に及んでいた。兵士らは道路の両側に向かい合って立っていたが、民衆や車馬の通行を妨げはしなかった」

円仁たち日本人僧の一団は歩き続け、正午近く灞河に到着し、旧暦8月20日夜は大唐の都長安の春明門外に宿泊した。ついに円仁たちは目的地にたどり着いたのである。

写真①

写真②

写真③

①汾河

円仁一行は旧暦8月一日に汾陽に到着、法律寺に宿泊し歓待された。円仁はここで初めて汾河について述べている。一行は、山西省南部の旅では、おおむねこの河に沿って移動しなければならなかった。私は汾河を何度も渡っているが、そのたびに円仁もこの地点で流れゆく水を眺めたのだろうかと感慨ひとしおであった。

②宿を探す

旅の僧に食を施し、宿を提供するのは当時の慣習であった。しかし、どの家庭や寺でも歓迎してくれたわけではない。円仁は、宿の主人の性格に注意を払い、「主人は親切にもてなしてくれた」とか、「主人は心穏やかな人であった」などと所見を述べている。しかし別の時には、「ここの主人はごろつきであった」とか、「この住職は、主客の間にあるべき礼儀をわきまえていない」などという記述もある。(野雪のスケッチより)

③稷山

途上、稷山の西の地点で円仁はこう記している。「いなごの群れは……穀物をすべて食い尽くし、路上、足の踏み場も無い」

写真の道は、円仁一行が歩いたのと全く同一のルートであった。一行は、路上に群れをなすいなごを踏みつけずには、足を下ろすことさえできなかったのである。今、小麦は豊かに成長し、畑地にはトウモロコシがよく実っている。干草の束もきれいに積み上げられている。私は農家に立ち寄って、唐代の蝗害について尋ねてみた。それには誰も答えられなかったが、お茶を出してくれて、私とおしゃべりをしたがった。

写真④

写真⑤

写真⑥

 ④いなごの異常発生

円仁は日記の随所に、いなごやバッタが各地を襲って穀物に被害を与えたと述べ、土地の人々が直面した辛酸を強調している。(野雪のスケッチより)

⑤唐代遺物黄河蒲津の渡し(永済市)

1989年、蒲津州の唐代城砦遺跡で、驚くべき鉄製の像が発見された。これらの鉄人、鉄柱、鉄牛(高さ7メートル、重さ40トンもある)は、黄河を渡るために船を並べて造った長い浮橋を、固定するのに使われたものである。円仁は「橋の長さは200歩(約300メートル)ばかり」と書いている。  

思うに、当時の朝廷は全国各地から鉄を集めてこれらの巨大な彫像や鉄柱を造り、橋を支えるために河の両岸に置いたのであろう。これは唐朝の富と権力の証しでもある。

⑥渭河橋

渭河は真東に流れて、やがて黄河に注ぐ。新しい橋がいくつも架けられているが、この橋こそ円仁が渡り、「南に行くこと五里で三家店の仏殿に入り宿泊した」と記したところだろう。私もここを夜渡ってみた。交通量は少なく、河の水面が非常に低いことに気づいた。

 

写真⑦

写真⑧

写真⑨

 

⑦龍門峡の漁師

旧暦8月10日、円仁一行は龍門県で一夜を過ごしたが、当時そこから黄河を渡るのはほとんど不可能であった。河は高い峡谷に阻まれ、この地点に来ると奔流となって平野部に流れ込む。渦巻く奔流を渡るのは危険であった。今ではダムによって河の流れが抑制され、漁師は魚を捕るのに流れを渡って砂州に行けるほどである。しかし円仁は、行路を真南に変え、なおも蛇行する汾河に沿って進み、黄河を渡る道を探すしかなかった。

⑧祟文塔、西安高陵地区

晩秋の午後、延安道をたどりながら、私は円仁が行列を目撃した場所を探した。この道路は拡幅されていたが、近くに新しい高速道路が建設されたため、長距離移動に使う人はほとんどいない。円仁が行列に出会ったのはここだと確信した。私は、東から入ってくる舗装されていない手近な道を選んだ。高陵第一高等学校の校庭に十三層磚石の祟文塔が建っている。円仁がここを通ったとき、この塔のある風景があたりを圧していたことだろう。生徒たちは、日曜夜六時の門限に間に合うよう、学生寮に向かって駆け出していた。これも一種の行列だった。

⑨黄河

ここ蒲津の渡しで黄河を越えると、長安への旅もあと一息である。私がここに着いたとき、陽はすでに暮れかかり、渺茫と広がる河と遠い対岸の風景をいっそう壮大なものにしていた。太陽が河面にきらめき、あたかも水を渡る黄金の道を敷いているかのようであった。

一行は対岸、現在の陝西省に着くと、朝邑で一日休息をとることにした。円仁が疲労を認めて休息を記すのは珍しいことだ。 0806

 

人民中国インターネット版 2008年7月24日

 

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