国際都市の宗教儀式

 

慈覚大師円仁 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた 







 



841年旧暦2月、「あらゆる種類の薬や食物、珍しい果物や花、多種の香を入念に整えて、仏牙を供養する……城内の人々こぞって参拝し供物を捧げ……銭貨を仏牙楼に向かって雨あられと投げる。正月10日、我々も仏牙楼に登って間近に仏牙を拝観し、押し戴いて拝礼した」

現在中国で釈尊の遺牙(歯)と認められるものが、北京の霊光寺境内にある特別の塔に納められている。遺牙は仏教弾圧のさなかに急遽長安から持ち出され、10世紀に入って最終的にここ霊光寺に安住の地を見出した。伽羅木の箱で保護し、さらに石の櫃に納めて封印されていた。

私は霊光寺の塔に登り、立派な金の仏舎利塔に安置された7センチもの大臼歯を拝観した。その後で巡礼者の一団に加わり、長い伝統に則って塔の周囲を廻った。それは、円仁が参列した長安の仏牙供養とほとんど同じものであったろう。

長安を目指したのは、アジア各地からの巡礼者や仏教の師ばかりではない。はるか遠いローマから商品を運ぶ商人たちも、この都を交易の地とした。シルクロード文化は、首都の中心的な生活スタイルを一種の異国趣味で染めていった。身分の高い貴婦人たちでさえ、トルキスタンやインドのファッションを真似した。異国文化は、デザインや食材の交流に最も顕著に表れた。

円仁の普段の食事は薄い粥と野菜であったが、特別の行事があると団子や果物が出された。ある日の日記には、天子から賜った胡餅を食べたと述べている。

最盛期の唐帝国では、異国の宗教も歓迎された。長安にはマニ教の導師もいれば、ネストリウス派キリスト教やゾロアスター教の信者もいたし、イスラム教を信奉する者もいた。しかし武宗皇帝は、あふれる外来文化に対して警戒を強め、異国の宗教を制限する布告を発し始めた。大いなる悲劇が幕を開けようとしていた。

 

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