廃仏毀釈

 

慈覚大師円仁 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた 

 

円仁日記は、武宗皇帝の勅令によって始まった廃仏毀釈運動の、842年から845年までの動向を詳しく述べている。随所に見られる記述から、初めは道教道士に肩入れして仏教僧を侮蔑する様子が示され、次いで仏教行事の全面的禁止となり、最後には徹底した仏教弾圧へと発展していく過程がわかる。1人の異国の僧が独自の視点でとらえた一連の事件描写以上に、この悲劇の歴史を生々しく伝えるものは他に無い。

円仁日記は、武宗皇帝の姿勢について最初に言及したものの1つである。日記の中で円仁は、麟徳殿で行われた宗教論議について述べている。麟徳殿は、長安北部の内裏の内にあり、外国使節が朝廷高官に対して、信任状ならびに貢物を献呈する殿舎であった。道教道士と仏教大徳(高僧)の間で論議が行われたのも、ここであった。

紫衣は最高位の聖職者を象徴する衣服だが、この日皇帝より紫衣を賜ったのは道士のみであり、大徳には何も賜らなかった。これは近づく仏教排斥の予兆であったと考えられる。皇帝は、いかなる外来宗教よりも、中国古来の道教のほうが優れていると、露骨に支持した。

「841年6月11日、左右両街より仏教大徳ならびに道教道士集合し、4人相対して経を論議した。2人の道士に紫衣を賜ったが、大徳は着用を許されなかった」と円仁は書いている。間もなく勅令につぐ勅令が発せられ、全国で僧尼に対する統制が始まった。

麟徳殿の礎石

麟徳殿遺跡は、龍首南路に保存されている。雑草の生えた小山の上に点在する礎石の間を歩き回りながら、朝廷高官に謁見する外国使節や朝貢使節を思い浮かべることができる。あるいは、道士と僧侶が一堂に会し、どちらの教義が優れているかを論じあう姿を想像するのもよい。

唐代乾陵章懐太子壁画 『客使図』(陝西省博物館)

この唐代壁画は、朝廷を表敬訪問する外国使節と僧侶を描いている。839年旧暦2月27日の円仁日記には、他の留学僧から聞きおよんだ話として、日本使節団が長安で宮中に参内したときの様子を次のように記している。「5カ国の使節団が一堂に会した。南詔国(現在の雲南)が第1位、日本は第2位の席次であった。その他の使節は冠をつけず、背中が曲がって容貌は醜く、獣の皮や荒布を身につけていた」。この壁画が、この円仁の記述を示していることはすぐに察しがつく。しかしこの壁画を仔細に点検してみると、かぶり物に羽飾りをつけた第2位の使節は、どうやら朝鮮半島から来た代表のようである。

円仁日記には、大明宮(宮中)と明言してはいないが、この宮殿についての記述が多い。例えば、「天子は皇城楼において尊号を奉られた。左右神策軍始め諸司軍が……席次順に隊列を並べた」(842年旧暦4月23日)とか「今日は天子の誕生日である。宮中で降誕祝賀が行われた」(同6月11日)などとある。

円仁はまた、この宮殿の露天の庭で催された道教祭儀についても記している。この場所は「九天道場」と呼ばれ、床壇を高く組んで九天(中央と八方の天)を表わす幟旗が飾られていた。また経文を焼き仏像を土中に埋めよという勅が出るのと前後して、宮中の数カ所から火の手が上がったとも書いている。

大明宮遺跡

唐の皇帝と朝廷の威光は大明宮内の皇居より発せられた。数世紀にわたり遺跡は廃墟と化していたが、近年、日本政府の基金により、ユネスコの手で宮殿基壇の修復工事が進められてきた。2003年11月、階段状の建造物の上で行われた開場祝賀行事に、私も出席した。式典関係者が、皇帝と同じように南に向かって壇上に立ち、近隣の踊り手や小学生たちが行事を祝して踊りを披露した。

私は、その冷たい秋の日、全軍、百官が居並ぶ円仁時代の光景を思い描こうとしていた。それは目の前で民族舞踊が繰り広げられた、まさにその場所であったのだ。

孤独の僧(西安興教寺)

僧尼を取り締まる最初の官令は842年旧暦3月3日に発せられた。無登録の僧を廃し、年少者が見習僧、沙弥になることを禁じたものである。5月には長安に居住するすべての外国僧に対する調査があり、「不行跡の僧」はすべて10月までに還俗せよと命じられた。この場合の「不行跡」とは、刺青をした者、妖術を学んだ者、軍を脱走した者、妻帯者などを指した。続いて寺に対する厳しい調査があった。とりわけ外国僧にとって、長安での生活はますます危険なものとなっていった。この写真の僧から、私は当時の円仁の孤独感を感じとった。

ほどなく、寺に対して「僧尼外出禁止令」が通達され、山門が閉じられた。843年の正月17日には「すべての僧尼は還俗せよ」という決定的な取締り令が発せられた。円仁が滞在していた資聖寺では「37人が還俗した」。数週間後、円仁ほか左街の寺々にいる外国僧20名が軍の検閲を受けるために召集された。

円仁日記には、西部地域でのウイグル族に対する戦について述べた箇所がある。843年旧暦4月には、勅が下ってすべてのマニ教布教者が殺されたと記している。こうした状況のもとで、日記を書き続け、行く手に漂う不吉な危険を語るのは、恐怖をともなうものであった。この恐怖感をもって、円仁は巻第3を閉じている。

843年旧暦7月、円仁の弟子惟暁が長患いの末に亡くなったのは、とりわけ悲しいできごとであった。惟暁の遺体は、城外にある資聖寺所有の瓦窯用地内に埋葬され、ここで百日斎まで忌日ごとに法要が行われた。

844年旧暦3月、仏牙供養を禁じ、聖地への巡礼をも制限しようとする勅が発せられた。円仁は、「今上天子は道教を偏に信じ、仏教を憎む」とずばりと書いている。また盂蘭盆会に仏教寺院に祭られた供物をすべて持ち去り、道教寺院に祭らせたことに対する諸寺の憤りについても述べている。844年の日記には、苛烈さを増す仏教への迫害について書きつづり、諸州においても、僧侶を記念する石柱や墓碑もろとも僧院が破壊されたと記している。

845年旧暦4月の条例は実にあからさまであった。ほとんどすべての聖職者が、地位を剥奪されようとしていた。5月13日、円仁を含めた外国僧にも還俗命令がでたため、円仁は直ちに長安を去ることにした。唐帝国におけるすべての仏僧の生活は大混乱に陥った。円仁は通行許可証を手に入れるや、これまでに写し取った仏典仏画を急いで梱包した。旧暦5月15日、円仁は、1人になった弟子と従者とともに、迫害の混乱の最中に急ぎ長安を後にした。

長安を去る円仁一行

円仁は髪を剃らず、世俗の衣服を身につけた。そして、袈裟をきつく折りたたんで首からさげた。(日本帰国後、円仁は「折りたたんだ袈裟を首に巻いた瞬間、この僧衣の印を身につけている限り、いかなる困難も克服できると確信した」と述べた。円仁の信奉者たちは、今でも略装の場合は僧衣の上に、折りたたんだ袈裟を象徴する「輪袈裟」と呼ばれるものをつける)

円仁は、3頭のロバを買い、持てる限りのものを積み込んだ。845年旧暦5月12日の日記には、「写し取った聖教すべてを身につけて帰れないのではないかと心配だ。途中、諸州の検閲によって荷物の中味が見つかり、違勅の罪を糾弾されることを恐れた」と書いている。(野雪のイラストより)

古代の灞河石橋遺跡

唐代の灞河橋は美しい石橋であった。長安への東の入口であり、恐らく漢代から続く中国最古の石橋の1つと考えられる。私はしばらく探した後、しだれ柳の傍らで、今は水底に沈んでいる古い礎石をいくつか見つけた。それは、100年前の幹線道路橋よりほんの少し上流であった。

5年前、円仁は、高僧に師事して仏法を学ぼうと心に定めた巡礼者として、灞河橋を渡って長安に入った。しかし845年、長安を去るにあたり、円仁は1人の世俗の逃亡者として同じ橋を渡ったのだった。もはや仏教との縁を示すことはできなかった。

しかし、これまで座主であった2人の還俗僧と役人1人を含む大勢の友人が、勇を鼓して円仁を見送り、餞別を贈ってくれたのである。(阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池晴子=訳)0809

 

 

阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『今よみがえる唐代中国の旅 円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』(ランダムハウス講談社)にまとめた。5洲伝播出版社からも同著の英語版、中国語版、日本語版が出版されている。

 

人民中国インターネット版 2008年10月

 

 

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