日本を“感知”する3つの方法

遼寧省 趙凱

従弟が日本から電話をくれる度、日本について話し始めると、往々にして物質的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという話になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの問題があるため、私もそうなのだが、日本に対して一種の敵意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、現在の日本と往時の軍国主義日本とは区別して見ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。

私は瀋陽の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、遼寧省作家協会が瀋陽市の委員会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関節と交換する治療を無料で受けさせてもらった。お陰で多少は歩けるまでに回復した。私は基本的に遠方へは出かけないし、住んでいる村を離れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。

私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の勝利まで、半世紀にも亘る対中侵略の歴史である。瀋陽は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で細菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。漢方医だった母方の祖父を始め私の親戚からも被害者が出た。

次に、文学作品を通じてである。世界一の長編小説『源氏物語』から芥川竜之介の『羅生門』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして現代の映画やテレビ―『君よ憤怒の河を渡れ』、『人間の証明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。

日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の電器や自動車など、そしてメディアを通じて見る日本の右翼勢力の一挙一動を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を愛する民族であるということ。日本の製品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊細であり、国民全体の資質が比較的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の政治の右翼傾化はいただけない。戦争の歴史は私達にとってひとつの傷痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。

中国文化と類縁関係にある日本は、私の心の中では複雑な存在である。

私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関係から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情報はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは決してないということである。鑑真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻呂が遣唐使になったりして結んだ情誼は、現代の日本でも今なお続いているということである。

従弟は、こんな話をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看護に行くと、去り際にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い頃に海軍におり、自ら中国人を殺したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を見てくれるとは、と深く謝罪したのだそうだ。この話は私をとても感動させるものだった。

しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて軍国主義による侵略の歴史という真相が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科書では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。

最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った時、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗談を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、過ごした時間も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、親しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。

2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一種の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな災難に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく電話をくれた彼は、日本での暮らしは物質的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると話していた。従弟は東京で、甥は大阪で、2人の親戚が2人とも、日本に行った後に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影響を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや見方を切り換えて、より理解し、より交流せねばならない。

行動は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く機会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で異郷に避難した時、二度目は治療のため都会に行った時、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大魚に乗りたがる子供』の出版座談会のため瀋陽へ行った時である。私はさながら大魚に乗りたがる子供のように、理想に描く大魚に乗って日本へ行き、自らの目で見て体感してみたい。

また、より多くの日本の若者が中国を見に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。

 

人民中国インターネット版 2008年12月4日

 

 

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