帰国の船を探す

 

中国最古の銀杏(定林寺)

845年旧暦7月20日から2週間、円仁一行は山東省中部の山岳地帯や荒地を歩き続けた。莒州地域の人々は不親切で、なんの援助も得られなかった。円仁は彼らを「粗暴で悪い」と書いている。彼は、定林寺の樹齢4000年の銀杏についてはなにも述べていない。おそらく勅令によって廃寺となっていたのだろう。しかし、今ではこの樹は中国最古の銀杏として名高い。

3月半ば、堂々とした枝の下に立ってみたが、烈風に写真を撮るのは難しかった。私は、苦難に耐えたこの樹に感嘆した。

円仁は不毛の荒地を歩き続け、僧尼にとって「辛苦は極まりなし」と記している。一カ月におよぶこの地域での円仁の足跡を地図上でたどってみると、この山野の行程がどれほど「辛苦極まりない」ものであったかが分かる。円仁を引用してみよう。「草木は高く厚く茂り、めったに人に出会わない。終日山に登り谷を下り、泥水の道を踏み越えて苦しみは果てしなく続く」「蚊やアブは雨のように降りかかり……」「食べ物の味は耐え難く、食べると胃が痛む」。まさに最悪の試練であった。

この間、皇帝はたて続けに苛酷なみことのりを発し、日本人僧にとって事態は悪化するばかりであった。845年旧暦8月に発せられた布告には、以下の数字が挙げられている。

「中国全土における破壊された寺院数=4600余、還俗して両税の納税義務を命ぜられた僧尼数=26万500人、破壊された私有僧庵数=4万余、最良田地没収面積=3000~4000頃(一頃=約6.67ヘクタール=約6.5町歩)、寺院所属の奴婢の地位を解かれて両税義務を担う奴婢数=15万人。僧尼は外事監督庁下に置かれて、仏教は外来宗教であることを明確にする。最後に、景教およびゾロアスター教の僧3000人を還俗せしめ、唐帝国の良俗を汚染せしめないこととする」(出典『武宗本紀』)

破壊された仏像

山東省青州の破壊された仏像は、唐帝国全土において仏像がどのように消滅したかを語っている。幸い、これらの仏像は細心の注意を払って地下に埋蔵されていたため、現在、学者たちが破片を集めてジグソーパズルのように修復している。壊れた手、足、腕、頭部などが、ようやくもとの胴体に戻ろうとしている。円仁は、懐かしい赤山法華院もまた同じ悲劇に見舞われたことを知った。845年旧暦9月22日法華院に着いたとき、「勅に従ってすべて破壊され、宿泊できる建物は一つもない」ことがわかった。

 

仏像の壊れた足

このもがれた両足をもとの胴体に戻すには、いったいどれほどの時間がかかるのだろう。青州博物館は1004組の足を所蔵している。たいへんな作業だ!

846年旧暦4月15日、円仁は武宗皇帝の崩御を知った。ほどなく5月22日新皇帝は仏教の再興を宣した。「天子は体がただれ崩れて崩御された」という円仁の記述は、武宗が道教秘薬を服用しすぎたことを示唆している。新しい時代の到来とともに、円仁はふたたび高僧にふさわしい丁重な扱いを受けるようになった。「50歳以上の僧はもとどおり出家することを許され、80歳以上の僧には銭五貫文が支給された」

円仁は直ちに従者を送って、楚州に託していた貴重な仏像や経典などを取り寄せた。残念なことに、「極彩色の胎蔵・金剛両部の曼荼羅は、勅令が非常に厳しかったために、劉(慎言、新羅人通訳)によってすでに焼却されていた」。それでも多くの仏典・仏画などが戻ってきた。これらは円仁が日本に持ち帰り、最も貴重な宝物となった。

846年旧暦10月、ついに弟子の性海が、日本からの書状と「帝(みかど)より御下賜の黄金」を携えてやってきた。性海は7カ月前に中国に到着していたが、揚州で通行許可が出るまで足止めされていたのである。

846年の円仁日記最終章には、「12月2日午前10時、日蝕があった」とある。それは吉兆ではなかった。なぜなら円仁が当てにしていた文登県から日本に向けて出る船は、外国人の乗船許可を得ていなかったのである。一行は、帰国の便船を求めて再び楚州に戻らねばならなかった。ところが楚州に着いてみると、船はすでに出航したと告げられたのである。大海を渡る船はそう多くはない。このことは、彼らをいっそう苛立たせた。

円仁は、ようやくある新羅人と手紙で連絡をとることができた。この新羅人が、山東から出る自分の船に一行を乗せましょうと確約してくれたのである。一行は直ちに小船で海岸沿いに赤山へ戻っていった。この便船も、危うく逃すところであった。追い風がなく、何日も小船を進めることができなかったからである。こうした挫折の経験は、円仁の決意をますます強くしていった。

港に停泊する船

2002年5月、山東省石島湾の漁船は強風を避けて停泊していた。845年から847年にかけて、円仁は石島湾近くの赤山に何度か出入りしている。彼はひんぱんにこのような小船に乗って海岸線を巡り、大洋航海船を探した。大洋航海船には例外なく新羅人の船乗りが乗っていた。当時彼らは黄海上の中国貿易の大半を取りしきっていたのである。石島湾から眺める背後の丘は、円仁の時代と変わらぬたたずまいを見せていた。

847年、ようやく円仁は新羅船に乗った。新羅人、中国人、日本人を含めて総勢44名が乗船していた。「9月2日、赤山浦から大海に乗り出した」と円仁は書いている。円仁はついに日本への帰途についたのである。言葉は簡潔だが、そのとき円仁が感極まっていたことは、想像に難くない。

 

阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『今よみがえる唐代中国の旅 円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』(ランダムハウス講談社)にまとめた。5洲伝播出版社からも同著の英語版、中国語版、日本語版が出版されている。

 

人民中国インターネット版 2008年12月

 

 

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