遼・金王朝 千年の時をこえて 第2回

 

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907~1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115~1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

契丹の故地を訪ねて

赤峰市の北を流れるシラ・ムレン(遼河の上流)。シラ・ムレンとは契丹語で「黄色い河」のこと

内蒙古自治区東部の赤峰市を流れる遼河を渡った時、私は契丹の先祖達の故郷にやって来たと、気持ちの高ぶりを押さえることができなかった。

この半遊牧民族は、中国の歴史に出現する遥か以前から遼河と北方の聖なる山の間を生活圏として走り廻っていた。遅い午後の陽射しが川面を淡く照らすのを眺めながら、私はその河を「シラ・ムレン」という契丹語の名で呼んでみた。

私はたちまち、契丹の領袖、耶律阿保機が部族を統合し、華北一帯にまで領土を拡大していった10世紀の時代に、タイム・スリップしたような感覚におそわれた。遥かに草原を見晴らすと私は1000年以前と同じ光景を見ているのだと実感した。

南塔壁面に施された装飾が今も残る
契丹の首都・上京は、阿保機の政治活動の中心として造営され、907年、阿保機がここで契丹国の皇帝の位に就いた。この都市は、伝統的な中国の首都設計の影響を受けて城壁と宮殿を備え、城内は、北に契丹貴族の、南に漢族の居住地と分かれている。現在、巴林左旗に隣接したこの場所は風の吹き抜ける草地に変貌してしまった。しかし至る所に散在する過去の遺跡が、往時の栄華をわずかに伝えてくれる。

1000年前に寺院が建っていた場所に、今では石造りの観音菩薩像が一体残されており、契丹の仏教信仰の名残を留めている。その傍らに立ってみると、合掌した手から垂れ下がる衣の彫刻や、首飾りの一部が識別された。また遠方に、もう1つ古い建造物が望まれた。この高さ25メートルのレンガ造りの八角塔は、南塔と呼ばれ、全ての面には様々な模様が彫られている。

真寂寺壁画にある 契丹の戦士の姿をした神将像

私は遼上京博物館の王館長と一緒に、塔の周囲を歩いたのだが、館長は削り取られた彫刻を指さして、20世紀の初めに日本の考古学者鳥居龍蔵が3回にわたってこの地を訪れ、多くの彫刻を持ち帰ったと語った。

南塔からさほど遠くない所で、私達は遼代の石窟寺院を拝観した。真寂寺の岩室の中で小さなローソクの灯りが壁面に彫られた数体の仏像を照らしていた。もっとも印象的だったのは、仏像を守護する強大な神像で、それは乗馬靴をはいた契丹の戦士の姿そのものであった。

私はさらに巴林左旗から南西へ30キロ、ぬかるみ道を旅し、契丹族の先祖の発祥地といわれる聖地祖州に至った。契丹の伝説では、この地で白馬にまたがった若者と牛車に乗った少女が出遇い、その子供達が契丹の8つの部族を興したと言われている。阿保機とその父親も正しくこの土地で生まれたのであった。辺り一面、既に野性に戻ってしまったが、唯一つ異様な姿の石室が残っていた。鳥居博士はこの石室は阿保機が自ら使用した聖なる場所であったと推測している。阿保機の先祖達の位牌を守る寺院であったとの説もある。私は石室から外をのぞいてみた。するとかつての祖州の輝かしい有様がおぼろげに現れて来るような気がした。おそらく、阿保機も望楼として、ここから遠くを見ていたのではないだろうか。この祖州も1120年に金軍の攻撃を受けて陥落してしまった。

石室の後方から、私は黒龍門を通って進んだ。狭い峡谷の両側にそびえる尖った峰が、阿保機とその一族の埋葬所へと続く自然の門を成している。

この英雄が54歳で死去した時、彼の帝国は東に渤海国、西にはモンゴルの大半をその版図に収めていた。契丹の風習に忠実な多くの戦士達は、主君の墓へ向かい、その死に殉じた。阿保機の妻・応天皇后が息子を後継者にするまでは殉死できないとして、代わりに右の腕を切り落とし棺に納めたというエピソードが伝わっている。

木葉山の麓の祖州に残る石室 祖陵の後方にそびえる木葉山

祖陵の後方に一族の守護神として崇められた木葉山が迫って見える。霧の中にこの峰々を眺望した時、私は契丹の歴史の出発点に立ったことを強く感じた。原風景は時の彼方に去ってしまったが、私には阿保機が黒龍門から出て、草原を横切りシラ・ムレンの方角へ馬を走らせていく姿が見えて来る。(阿南・ヴァージニア・史代=文・写真)

 

人民中国インターネット版 2009年3月

 

 

 

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