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「文字を教える」から人材資源大国へ

 

再開された大学入試

欧米と比べると、中国の高等教育は始まるのが非常に遅かった。1949年まで中国には、大学が全部で205校しかなく、学生は約12万人だった。

毎年、高校受験のころは、都市の試験場の外は、子どもを心配して待つ親でいっぱいになる(写真・馮進)

新中国が成立した後、高等教育の発展に大きな力を入れると同時に、国の需要に基づいて、総合大学と単科大学の学部と専攻を再編成した。1965年までに全国の大学は434校、学生は68万人になった。

しかし、1966年から76年までの「文化大革命」の中で、学校教育の秩序が混乱し、全国大学の統一入学試験は中断された。これは大学で学びたいという多くの若者たちの夢を打ち砕いただけではなく、国にも深刻な人材の不足をもたらした。

1977年8月4日から八日まで、仕事に復帰したばかりの中国の指導者、鄧小平氏は、「科学と教育工作座談会」を主宰した。その席上、鄧小平氏は大学入試の再開を提案し、人材育成を急ぐ必要から今年からそれを実行すると、その場で決断した。そのニュースが伝わると、各地の青年たちや親たちはお互いに知らせあい、多くの青年たちは人生の希望と勉強の意欲を燃やした。彼らは図書館に通い、書店を巡って本を買ったので、たちまち「洛陽の紙価を高める」(書籍が売れて急に紙の値段が高くなる)という現象が起こった。

1977年12月10日、570万人の受験生が北京や全国各地の大学の入試会場に向かい、その年、27万3000人が大学に合格した。1978年の夏には、610万人が大学を受験し、40万2000人が合格した。

これで、「文革」によって10年も中断していた大学入試は、やっと正常な軌道に戻った。大学入試の復活は、多くの青年たちの科学や文化を学びたいという情熱をかきたてただけでなく、中国の教育に生気と活力をもたらし、全中国を活性化し、社会の風潮やライフスタイルも変えた。このため大学入試の復活は、中国の「改革・開放」のメルクマールの一つとされている。

1977年に大学入試が復活した。清華大学で授業を受ける同年入学の学生たち(新華社)

それ以後、中国の高等教育はずっと着実に発展した。1999年になると、大学の新入生募集定員は、前年より51万3200人多い159万6800人になった。これは、21世紀の中国の経済・社会が発展するうえで必要とされる人材の需要に応えるためであり、また自分の子どもに高等教育を受けさせたいという多くの人々の願いに応えるためでもあった。と同時に、教育面での消費を増やして内需を拡大し、教育関連産業の発展をもたらし、当時のアジア通貨危機に対応することをも考慮したのである。

その後、各大学はさまざまな困難を克服し、毎年、募集定員の拡大を続けた。2007年末まで、全国の1908校の大学が566万人の新入生を迎え、在学している大学生は2700万人に達し、世界第1位となった。大学進学率は約23%になった。また高等教育を受けた人の数は7000万人を超え、世界第2位となった。現在、中国の大学教育は、すでにエリートの育成段階から大衆化の段階に突入した。中国は人口大国から人材資源大国になった。

大学入試再開の翌年である1978年に、中国では6万5300人が大学院を受験し、1万300人が合格したことも触れておかなくてはならない。その後、中国は毎年、大学院の修士課程と博士課程の募集定員を拡大し続けた。

大学院生の教育は、国のために大量のハイレベルな人材を育成し、中国の教育や科学研究、さまざまな事業の発展に重要な役割を果たしてきた。北京大学中国言語・文学学部の陳平原教授は、1978年に中山大学に合格し、卒業後、北京大学の大学院生となった。現在は中国現代文学の研究家として、10人以上の国内外の博士課程の院生を指導している。

海外留学で育つエリート

1978年6月23日、鄧小平氏は、当時、国務院副総理であった方毅氏や教育部(省)の指導者、清華大学の学長に対しこう述べた。「私は留学生の数を増やし、主に自然科学を研究させるのに賛成です。幾千幾万でも派遣しなければなりません。10人とか8人とかを派遣するのではなく……これは5年以内に効果の出る、わが国の科学教育レベルを高める重要な方法の一つです」

湖北省武漢大学は東湖と珞珈山に囲まれた美しい環境の中にある

この発言は「文革」時代の鎖国を否定するものであった。「文革」の10年間に、10億近い人口を有する中国が派遣した留学生は、わずか21カ国、337人であった。鄧小平氏が留学生派遣の拡大を打ち出したことが、海外留学ブームを呼び起こしただけでなく、中国が国の門戸を開くというシグナルを、中国自身にも世界にも発したのである。だからこれを、中国の対外開放の前奏曲と言う人もいる。

その年の7月、北京大学の周培源学長は団を率いて米国を訪問し、1978年度と1979年度に、500~700人の留学生、院生、派遣研究者を米国へ送る協定を結んだ。続いて英国やエジプト、カナタ、オランダ、イタリア、日本、西ドイツ、フランス、ベルギー、オーストラリアなどの国々とも留学生交換の協定が次々に結ばれた。後には、国家派遣の公費留学生以外にも、私費留学の学生たちが相次いで海外に留学した。

「改革・開放」が始まって30年間で、中国の海外留学生総数は121万人に達した。彼らは苦学しながら外国の進んだ科学技術と文化や管理などの経験を学んだ。その中の32万人は、卒業後帰国し、多くの人がさまざまな職場で重要な職務を担当したり、科学研究に貢献したりしている。

例えば教育、科学研究の分野では、大学学長の77%、中国科学アカデミー会員の84%、中国工程院会員の75%、博士指導教官の62%が海外留学の経歴を持っている。その中には全人代常務副委員長の路甬祥氏や陳至立女史、中国工程院院長の徐匡迪氏ら国家指導者になった人もいる。

2008年2月、北京で催された春季国際有名学校留学展には、10カ国以上の、100以上の高校と大学が参加した

海外留学から帰国し、「海亀」とも「海帰」とも呼ばれるエリートたちは、自ら創業して優れた業績をあげている人も多い。鄧中翰さんはその代表と言えよう。鄧さんは1992年に米国に留学し、5年間で修士の学位を二つ、博士の学位を一つとった。1999年にシリコンバレーから帰国し、「中星微電子有限会社」を創設した。彼が指導して開発した「星光」デジタルマルチメディア・チップは、コンピューターの画像入力チップの世界市場で60%以上のシェアを占めており、国内外の有名企業に大量に採用されている。

新中国が成立してから60年、とくに「改革・開放」以来、中国は成人教育や職業教育、特殊教育、国際教育協力などの面でも、注目すべき成果を収めてきた。

もちろん、経済・社会の発展や、より高い教育を求める人々の要求の高まりにともなって、中国の教育にはさらに多くの問題が出てきている。例えば、大学が募集定員を増やした後、どのように教学のレベルを高め、質の高い教育を保証するか、また、毎年600万もの大学卒業生をどのようにして就職させるのか――こうした問題について真剣に検討し、実行していく必要がある。

 

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