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外国人留学生にもチャンスのある北京

 

1984年静岡県うまれ。現在、日本国費留学生として、北京大学国際関係学院に在籍。学業の傍ら、中国のメディアで、コラムニスト、コメンテーターを務める。『七日談~民間からの日中対話録』(共著、新華出版社)
4月1日、中国とフランスの外交部(外務省)は『中仏プレスコミュニケ』を共同発表した。フランスは「チベット問題の重要性と敏感さを十分に認識しており、『一つの中国』政策を堅持し、チベットが分割することのできない中国の一部分であるという立場を堅持することを重ねて確認」したのである。一年以上ギクシャクした関係が続いた中仏関係は、この日を以って「正常化」されたようである。

サルコジ大統領のチベット問題に対する立場に中国側が疑問と反感を示し、五輪イヤーにあたる2008年以後、両国の外交関係はこれまでに例をみないほどこじれていた。私はずっと北京で動向をウォッチしていた。フランス資本の大手ショッピングセンター「カルフール」に対する抗議デモや「仏貨排斥」運動が起こり、ネット上でも「ルイ・ヴィトンは中国から撤去しろ!」「サルコジは北京五輪に来るな!」などの言論が蔓延していた。

中国とフランスの関係は現代国際関係における「友好の象徴」と思い込んでいただけに、そのショックは、私にとっても小さくなかった。その意味で、「エイプリルフールのリアルニュース」はサプライズだった。

ただ、私には違和感が残った。サルコジ大統領はなぜこのタイミングで、以前から固執してきたチベット問題に妥協的な態度を見せたのだろうか。同じ時期にロンドンで開催されていた第2回G20首脳会合では「かりに各国が私の意見を聞き入れないようであれば席を立つ」というほど、対外政策において強硬姿勢を見せていたのにもかかわらず、である。

いろいろ考えているうちに、もう一つのサプライズが私の耳に入ってきた。2002年から2005年までフランスの首相を務め、シラク大統領の側近として対中関係を切り盛りしていたジャンピエール・ラファラン氏と対談することになったのである。香港系でテレビとウェブサイト両方の機能を兼ね備える「鳳凰新媒体(フェニックスニューメディア)」が舞台となった。

4月6日午後5時、ラファラン氏が姿を現した。笑顔で握手をし、番組前の雑談に入った。私は、北京大学で学んでいること、国際関係を専門に学習していること、昨今の中仏関係に関心を持っていることなどを伝えた。ラファラン氏はとてもオープンマインドで、フレンドリーな人だった。

ラファラン氏(中央)と対談する筆者(左)

対談は、通訳を介した中国語―フランス語で行うことになった。ウェブを通じての生中継で、テレビでも放映されるとのことだったが、とくに緊張することもなく、平常心で臨むことができた。

対談が始まるや、私は抱き続けてきた違和感をぶつけた。ラファラン氏は「2008年、とくに北京五輪の聖火リレー問題で、中国とフランスの間には不協和音が生じてしまった。私自身、あのような状況は心地よくなかったし、正直つらかった。数々の困難を乗り越え、先日、胡錦濤主席とサルコジ大統領が面会した。これは両国にとって友好的基礎となり、協力関係を推進していける自信を示したものだ。フランスは仏中関係や中国の統一問題を非常に重視している。それはとても敏感な問題なのだ」と述べた。

首相の地位からは退いたものの、現役政治家という立場に変わりはないため、突っ込んだ言い方はしなかったが、その言葉と表情から中仏関係に対する信念を感じた。対談の最後には、「明日、李克強副総理に会う。彼は仲の良い友人だ。両国がオープンマインドで議論し、ともに努力していこうという姿勢を共有してくるよ」と目を輝かせていたのが印象的だった。

対談は私にとって貴重な体験となり、対談の余韻がいつまでも残った。 ◇  さて、約一年間にわたって執筆してきたこの欄も、今回が最終回となった。この期間、北京ではさまざまなことが起こった。2008年は私にとって「本命年」(年男)だったこともあり、気合を入れて、一日一日を大切に過ごすよう心がけた。

最終回に、ラファラン氏との出会いをあえて取り上げたのは、私のような一日本人留学生がフランス元首相と生中継の対談ができる場所、それが「Beijing」なんだという現実を読者の皆さんと共有したかったからである。そんな北京とともに歩んでいる今を誇りに思いたい。

「第二の故郷」の持続的な平和と発展を祈って。

 

人民中国インターネット版 

 

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