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釘まで輸入していた国が 鉄鋼生産世界一に

 

鉄鋼大生産運動の浪費

1958年11月、鉄鋼生産を支援するため、湖南省漣源第五中学の500人以上の教師と生徒が東方紅人民公社に派遣され、「土高炉」を築いて鉄をつくった(新華社)

1957年末、中国は「第1次五カ年計画」を順調に完成させた。この年の鉄鋼生産量は535万トンに達し、1952年に比べ296%増加し、経済発展の基礎を築いた。しかしこのとき、一部の高級指導者は焦って、経済を主管する指導者が提出した生産計画を、「保守的」であると批判し、目標を高く設定し、「多く、速く、立派に、無駄なく」建設を行い、「大躍進」を実現するよう要求した。

そこで1958年に開かれた高級指導者の会議で、その年の鉄鋼生産量を1070万トンとすると決定した。この年の1月から8月までの鉄鋼生産量は400万トンで、残りの4カ月で年間の鉄鋼生産を2倍にするという目標を達成するために、全国人民による「鉄鋼大生産」の大衆運動を巻き起こすよう呼びかけたのである。

私は当時、広東省蕉嶺県の高校で学んでいたが、故郷で展開された「鉄鋼大生産運動」を実際に体験した。

このとき、学校は休校になり、教師も生徒もみなこの運動に参加した。私たちはまず、学校の空き地に土高炉(土でつくった高炉)を築き、近くの鉱山から鉄鉱石や木炭を担いできて、教師と生徒が輪番で鉄をつくる作業に従事した。

間もなく、木炭が足りなくなり、私たち男子生徒は深山に分け入り、炭を焼いた。私たちはまず、山の渓谷に屋根だけの茅葺の小屋を建ててそこに住み、朝早くから夜遅くまで山の斜面に炭焼きの窯をつくり、木を伐り、窯に入れて、火をつけて炭を焼いた。木炭ができ上がると、すぐに学校へ担いで帰り、鉄をつくった。

1カ月後、小さな土高炉で鉄をつくっていては量も少なく、能率も悪いので、県内の人力や物力を大量にかき集めて、一挙に鉄をつくる準備が始まった。ある者は川辺の山の傾斜地に4本の深くて幅広い長い溝を掘り、ある者は薪や石炭、砂状の鉱石を担いできて、それを順番に長い溝に注ぎ込んだ。

すべての準備が終わり、待ち望んでいた点火が行なわれた。川辺の強い風を借りて薪が石炭に燃え移り、石炭が鉄鉱石を焼いて、自動的にドロドロの銑鉄が流れ出るはずだった。

だが、そうはならなかった。数千の人々が半月間、日夜奮闘し、膨大な物資と人力を浪費して得たものは、ぬか喜びにすぎなかった。

統計によると、当時、全国で約9000万の人々が動員されて山に入り、木を伐り、石炭を掘り、鉱物を採掘した。百万基以上の小さな土製の高炉やコークス炉が築かれ、昔ながらの方法で鉄や鋼をつくった。

こうした非科学的な大衆運動は、重大な結果をもたらした。1958年の鉄鋼生産量は1108万トンに達したとはいえ、その中で合格したのは800万トンにすぎなかった。また農民を鉄鋼づくりに駆り立てたため、農作物の収穫の時期が遅れ、凶作になってしまった。

あらゆる産業が「鉄鋼大生産」を優先させたため、社会の正常な生産と活動が混乱し、生産のバランスが崩れ、市場への物資の供給は不足した。

さらに「鉄鋼大生産」によって大量の石炭や鉄鉱石、樹木などの物資や財が消耗し、その損失は200億元以上にのぼり、国民経済と人民の生活に深刻な困難をもたらしたのである。

このように中国の鉄鋼生産は曲がりくねった道を歩んではきたが、国は引き続き鉄鋼業に投資を続けた。

50年代末に河南省安陽、河北省邯鄲、山東省済南などに大型の製鉄企業を建設した後、60年代にはまた西南、西北部に、攀枝花(四川省)、酒泉(甘粛省)、西寧(青海省)の製鉄所や成都シームレスパイプ工場(四川省)など大型企業を建設した。

70年代にはさらに莱鋼(山東省)、沙鋼(江蘇省)などの大型製鉄企業を興した。このほか各地に小型の製鉄企業が次々につくられた。

しかし、1959年から3年間続いた自然災害による経済困難の影響や、とくに「文化大革命」による混乱と破壊によって、1958年から1978年まで、鉄鋼生産は、生産量が急増したり激減したりしながらも、ずっと年間2000万トン以下で推移した。このため、経済の発展が制約を受けたのだった。

 

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