梅と桜の踊り

葛爽 南京大学

これは私が成長してきた過程において、日本について何を感じ、中国と日本について何を考えてきたかという話である。書き切れないほどたくさんがあるが、できるだけ伝えたいと思う。

血涙の山

私の故郷は中国の東北部にある「臨江」という町である。臨江は木材や鉱物が豊かなところである。しかし日中戦争の際に、日本軍によってこの豊かな資源の多くが侵奪された。私は「ポスト80年代」の生まれのため、実際に自分の目で戦争を見ていない。だが小学生の時に、臨江に今も残るいわゆる「万人坑」を見学して、戦争の恐ろしさに驚き、怒りを覚えた。その記憶は今でも鮮明に残っている。

万人坑は石人鎮という所にあって、「血涙山」と呼ばれている。元々、この山は「浴淋塔山」といった。「満洲国」時代に日本人が石人鎮炭鉱を開いて、中国人に強制労働をさせた。彼らは長時間労働させられたため、病気になったり、命を落としたりした。

亡くなった人達は皆、この炭鉱の隣にある「浴淋塔山」に遺体を投げ捨てられたのだ。彼らの骨は山の堀を埋めてしまうほどだったという。後の調査によって山に投げ捨てられた遺体の数は数万人を超えていたことがわかった。この事件から、この山は「血涙の山」と呼ばれているのだ。

この山を見学した後、私の心の中で日本のイメージが一層悪くなった。当時、小学校の先生は私達に「これは日本軍国主義の誤りであって、日本人全員が悪いわけではない」、「中日の友好に役に立つために、皆さんは一所懸命勉強しよう!」と話された。

しかし小学生だった私は、「軍国主義」という言葉の持つ、さまざまな意味を理解できなかった。私はただ、日本人に対して、「ひどすぎる!どうして穏やかな民衆を苛めたの?命は何よりも大切なのではないの?日本なんて大嫌い!」と、怒りの気持ちでいっぱいだった。

日本語の勉強

このように長い間、私は日本が好きではなかった。高校卒業後、広州にある華南理工大学に進学した。運命が私にいたずらをしたのだろうか?「愛国」の私が日本語を専攻することになってしまったのだ。なんと不思議なことだろう!これが運命ではなくて何だろうか?日本語なんて、やりたくない、やりたくない。仕方なしに、私は日本語を勉強し始めた。

しかし勉強を進めるにつれて、私は日本語の発音の優しさ、日本語の語彙の面白さに興味を抱くようになった。日本語を通じて私は日本に対する新しい感情が沸き起こってきたのだった。日本語の魅力が私の日本に対する見方を変えさせたのだ。今、振り返ってみると私にとって、広州で勉強した四年間は人生で一番素晴らしい日々だったと思う。

中国東北部の国境の町から,賑やかな都市である広州に来て、新しい外国語、日本語を学んだのだ。日本語を通じて、日本に対する今までとは異なった見方を持つようになり、更には世界に対する関心も持つようになった。

勿論、大学生となった私は「軍国主義」、「ファシズム」、「ナチス」の単語が何を意味するのか、分かるようになった。また戦争のせいで日本も深い傷を受け、多くの日本人の命が奪われたことも知った。

戦後の日本は、瓦礫があちらこちらに散らばった状態だった。家は焼き払われ、家族の命が奪われた。中国人と同じだ。日本人のすすり泣く声も悲惨だ。戦争には正義も非正義もない、戦争で犠牲になった人は、皆同じく悲惨なのだ。侵略された国の犠牲者は多く、侵略した国の犠牲者は少ないということはないのだ。命というものは、味方だから重く、敵だから軽くなることなどないのだ。

梅と桜の踊り

私は大学卒業後は就職せずに、大学院へ進学することにした。今は南京大学の大学院生となり、南京に住んでいる。南京は千年前の都だっただけではなく、民国時代にも首都として全国の政治の中心だった。

中国では、南京といえば国民は思わず1937年の南京大虐殺を思い出すと言われている。私は南京に来る前、日本に恨みのある南京の人々は日本に対してどのような態度をとるのだろうかということに、非常に興味を持っていた。南京の人々は「反日」感情が強いのかもしれないと思っていたのだ。しかし私の予想ははずれた。確かに南京には大虐殺記念館がある。しかし同時に、江蘇―福岡友好の桜の園もあったのだ。

今年、南京に桜が咲く4月に、友人と一緒に桜の園に行った。この桜の園は南京市郊外にある明の孝陵の中にある。日本の福岡県の人々による寄付で、1996年に完成したそうだ。8つの品種、4000株の桜の木が植えられている。南京では最大の桜の園として、既に中日友好のシンボルとなっている。  

桜の園の傍には梅花山がある。この山に、多くの梅の木が植えられているため、「梅花山」と呼ばれているそうだ。春になると、満開の梅と桜で、ここの景色はまるで絵に描いたように素晴らしい。風が吹いて、梅と桜がひらひらと舞い落ちる光景は、素敵な踊りを見ているようだった。

私はこの時、さまざまなことを思い出していた。小学生だった昔、大学院生となった現在、今までに私の身には色々な変化が起こってきた。小学生時代の私なら、ある日自分が日本人のように花見をしたり、お酒を飲んだりするなどとは夢にも思わなかっただろう。日本語を勉強したことで、私は変わり、私の運命も変わったのだった。

日本語は私に新たな世界があることを教えてくれた。私の日本に対する誤解も消えた。明の孝陵に舞う梅と桜は、風でお互いが交わりあって、どちらが梅の花びらで、どちらが桜の花びらか、わからなくなっている。おそらく梅と桜自身もわからないのではないだろうか?この梅と桜は、中国と日本のようだ。 

両国は、違う言語、文化を持ってはいるが、隣国であるというおかげで互いに影響し融合しあってきたのだ。中国には日本的要素があり、日本にも中国的要素があるのだ。私の目には、中国も日本も単なる一つの国ではなく、互いの国の要素を持ちあう国に映るのだ。

血涙の山と桜の園は別々に存在している。日本語を学んだ私は、血涙山を見学した後でも、落ち着いた心で、桜の園を見学することができた。日本語を通じて、新たな日本に対する感情が湧いたからだろう。

一方、日本でも中国語を通じて中国に対して新しい感情が湧いた人は大勢いる。互いの国を理解することによって、遠くない将来、中国と日本は必ず繁栄した国家となるだろう。私は、両国が世界の舞台で梅と桜の踊りを舞うことができるのだと信じてやまない。

選評コメント

中国・東北で生まれた筆者は、「80後」の若い世代だが、万人坑の見学などを通じて日本に対するイメージは悪かった。それが日本語の学習を通じて変化してゆく過程が無理なく描かれている。

創作におけるインスピレーション

私は日本に行ったことがありません。ですから、直接に日本に触れることもできません。しかし、日本語を通じて、日本に対する見方も変えて、日本のことがわかるようになりました。それで、私の成長してきた過程において日本に対して違い見方をもって、この作文ができあがりました。作文の中で書いたように、私は、両国が世界の舞台で梅と桜の踊りを舞うことができるのだと信じてやまない。私も両国友好のことを心からお祈りします。

受賞の感想

この度、作文コンクールで二等賞をいただきまして、とても嬉しいです。ただ自分の考えを書き出して、受賞のことは夢にも思いませんでした。まず、評選委員会および全ての関係者の方々に感謝申し上げます。それから、この機に私を育ててくれる両親に感謝を捧げます。親の恩なしには、私は大学に進学できず、今日受賞のことも無理のです。また、作文を完成するまで、根岸智代さんと吉見崇さんからたくさん助言を頂きました。あらためてここに感謝の意を表します。また、南京大学での勉強中、多大なご指導と激励をくださった指導教官の曹大臣助教授に厚く御礼を申し上げます。最後に「人民中国」雑誌社の益々の活躍をお祈りします。

 

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