万国博覧会の十人の人物  
 

王宝軍=文

1851年第一回万国博覧会がロンドンで開催されて以来、万国博覧会には多数の重要な人物が現れ、百年余りの万博の歴史は広く知られている。

一カ月も経たないうちに、第41回万国博覧会は中国の上海で盛大に開幕される。この際、万国博覧会の歴史を振り返るにあたり、必ず思い出されるのはこれらの著名な人たちであろう。これら知名人の中には、国家元首や会場設計者、そして万国博覧会の機に発明や製品を広く知ってもらおうとする科学者…など様々な著名な人物である。

これらの人たちは万国博覧会の歴史を築き上げ、偉大な貢献をして万国博覧会を光り輝かせ、人類の万国博覧会の歴史上、永遠に輝いている。

ヴィクトリア女王 第一回万国博覧会の創始者

万国博覧会の由来と言えば、必ず触れなければならないのは、イギリスのヴィクトリア女王である。ヴィクトリア女王は、第一回万国博覧会の決定者として、施政の期間、特に1851年以後は、イギリスの歴史ではヴィクトリア朝と呼ばれている。この年に、第一回万国博覧会がロンドンで開催された。

ヴィクトリア女王は18歳の時に即位し、在位63年で、鉄腕の君主と呼ばれていた。彼女の夫であるアルバート親王は、女王の従兄であり、当時のイギリス法律で彼の参政は制約されていたが、実際は彼の影響力も大きく、万国博覧会の開催もアルバート親王の提唱によるものだった。この博覧会の開催により、イギリスが世界のトップの座を固めるという提案は、当然女王の賛同を得た。開会式でヴィクトリア女王は来場者達と同様に興奮し、日記の中で「この気持は一生忘れられない」と書き残している。

ジョセフ・パクストン 「クリスタルパレス」の設計者

ジョセフ・パクストン(Joseph Paxton)はロンドン第一回万国博覧会の会場として建てられた著名な建物クリスタルパレス(水晶宮)の設計者である。この建物は本来万国博覧会の展示品を展示する場所として建てられたが、第1回万国博覧会で最も成功した作品と展示品となり、万国博覧会のシンボルとなった。

ハイドパークの南側に万国博覧会の会場として、仮設建築を建てると決めた時は、人々に反対された。レンガ造りのパビリオンを建てれば、必ず永続的な建物となり、ハイドパークに生い茂るニレの巨木が伐採され、ロンドン住民の憩いの場が壊されてしまうと、抗議された。皆が苦慮していた時、一つの思いがけない案が出て、万国博覧会を成功に導いた。これはイギリスの造園家ジョセフ・パクストンと彼が創作したクリスタルパレスで、植物が屋根の下で保護されるようになった。

パクストンが設計したクリスタルパレスはわずか半年足らずで完成された。この巨大な建造物は鉄やガラス、木材から構成され、巨大な鉄骨の枠が30万枚のガラス板に覆われ、立派で壮麗な建物として、「クリスタルパレス」と名づけられた。

溥倫 万国博覧会に参加した初めての清朝の代表者

後世では溥倫(Pu Lun)の能力と業績はごく普通だと評価されているが、氏の運は非常に良かった。1904年、清朝の皇族として、初めて清王朝によって派遣され、米国のセントルイス城で開催された万国博覧会に参加し、中国の万博の歴史の一ページに名を残すことになった。

米国セントルイス万博の時は、ちょうど中国が比較的、安定した時期だった。西太后は難関を乗り越えるために、やむを得ず「新政」を実行し、清王朝がセントルイス万国博覧会に参加するようになった。資料によると、溥倫は資政院総裁、農工商大臣等の重職にあったこともあり、1903年、米国セントルイス万博の正監督となった。

中国人がこの時、海を渡って、米国の万博に参加したことは、国内外でも反響が引き起こされ、会場では北京頤和園の模型などが出展され、啓新洋灰(セメント)公司が出品したホースブランドのセメントが金賞に輝いた。

ルーズベルト 万国博覧会により経済危機を乗り越えた先駆者

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)は米国史上で唯一人の四選された大統領であり、二十世紀の世界的な金融恐慌と第二次世界大戦において重要な役割を果たし、学者にアメリカの最も偉大な大統領三人の中の一人として評価されている。任期の初期に世界的な大恐慌にぶつかり、国民に自信をもたせるために、有名な「炉辺談話」を発表し、ニューディール政策を実施した。そして、シカゴ万国博覧会の開催により、経済危機を乗り越えたことは、現在、世界経済の低迷の中で開催される上海万国博覧会にとっても、重要な参考となる。

1933年の米国シカゴ万国博覧会は、世界的な大恐慌の下で開催されたものであり、この万国博覧会を成功させることは、大統領であるフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策にとって、重要なこととなった。その結果、シカゴ万国博覧会は直接、間接的に十万人ほどの雇用を創出し、2300万人近くの入場者を迎え、人々に危機に打ち勝つ勇気と自信を大きく持たせ、大成功であった。

1939年、第二次世界大戦前に行われた最後の博覧会はニューヨークで開催された。4月30日、ニューヨーク万博が開幕され、この開幕式は初めてテレビで中継された。人々はフランクリン・ルーズベルト大統領の平和を望むスピーチを生で聞いた。「ニューヨーク万国博覧会に参加する全ての人が、必ず最も熱烈に歓迎され、我々をリードするのは依然友情と国際間の善意であり、そして最も大事なのは平和である」。

ユゴー 万博史上の偉大なる作家

ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)は1802年フランス東部のブザンソンに生れた。彼は19世紀ロマン主義文学運動のリーダーとして、人々に「フランスのシェイクスピア」と呼ばれ、その小説『レ・ミゼラブル』、『ノートルダム・ド・パリ』、『笑う男』などは中国でも広く知られている。一八六〇年英仏連合軍が中国を侵略し、円明園を焼き払った後、ユゴーは立ち上がって、中国のために筆を振るった。彼の理性と正義感は今も中国の人々を感動させている。世間に知られていないのは、実際、彼は二回もパリ万国博覧会に参加したことである。

1867年のパリ万国博覧会に、フランスの作家ユゴーはパリ万博案内に「戦争を捨てろ。提携して団結せよ」と書き残した。この言葉は今でも我々の耳に残っている。1878

年のパリ万国博覧会では、主催側は初めて万国博覧会で歴史的意義のある一連の世界会議を開き、万国博覧会を思想交流の場とした。ユゴーは万国博覧会の期間に作家大会を司会し、会議で文学の知的所有権を保護する国際法を作成した。そして郵政大会、婦人運動大会、貨幣大会と度量衡標準化会議などをも主宰した。

最近、伝えられるところによると、フランスの文豪ユゴーの故郷ブザンソン市は三年間をかけ、各界の力を結集し、上海にユゴーの半身銅像を製作したそうだ。この銅像は完成後、中国上海市に寄付され、建設が計画されている上海演劇大道に置かれる予定である。

 

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