遼・金王朝 千年の時をこえて 第15回

 

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

 

阜新──皇后たちの郷里

遼寧省の西部には、遼の歴史に深い関係を有する場所が数多くあるが、蕭一族の領地であった阜新地区もその一つである。契丹の勃興時に、耶律と蕭という二つの強力な門閥が出現し、耶律は皇帝の家系であったのに対し、蕭の方は皇后を輩出し、大きな政治力を蓄えていた。蕭一族は封土として下賜された阜新一帯を領有していたが、阜新は戦略上の要衝であるとともに、肥沃の土地と水資源に恵まれ「風水」も良好なため、古くから契丹の心臓部と呼ばれていた。

ここは、内蒙古の草原が遼河平野と境を接するところで、遼代には、牧草地と農耕地をともに有することから、狩猟と農耕の混合経済の態を成していた。最近、阜新を訪れた私は、かつての牧草地がほとんど完全に耕地化されているのを知って驚いた。見渡すかぎり、トウモロコシの畑が続いていたのだが、1千年前に豊かな土地であったという印象は、今も感じられた。

この地の守りを強化する目的で、多くの要塞化された城郭「頭下軍州城」が建設された。主要な城郭のうち、阜新にある9つが蕭一族により統治されるか、あるいは皇族の皇女によって所有されていた。これらの城郭は軍の駐屯地でもあり、他部族の反乱があれば、その鎮圧のためにただちに出動できる態勢になっていた。そして阜新は蕭一族の5人の皇后および耶律一族の皇女たちの婿の出身地として、政治的にも極めて重要な地であった。著名な蕭姓の高官や将軍の多くが、この阜新の出身である。このように緊密な婚姻によって結ばれた複雑な関係は、皇位継承をめぐっての権力闘争にまつわる興味深い逸話を残している。

11世紀の遼代城郭、成州の城壁跡

成州遺跡の丘に立つ遼代の塔 (紅帽子郷担当者提供)

蕭一族の高貴な身分の女性たちは自由な環境の中で育ち、狩猟や武芸に長じていた。おそらくもっとも有名なのが、承天皇太后(1009年没)として知られる蕭燕燕で、強力な指導力と巧みな政治力、さらには類い稀な軍事的能力によって、契丹女性の象徴的存在と見なされている。夫の景宗が若くして世を去った時から、承天皇太后は、幼少の息子、聖宗を補佐し、皇后として14年、そして皇太后として26年間、実質上国政を司ったのである。彼女は自ら軍勢を率いて宋と戦い、その結果もたらされた平和と富によって遼王朝の基礎を確固たるものにすることができた。後代の皇后たちが承天皇太后の強烈な個性の影響を受けたであろうことは疑いない。

懿州の塔菅子塔。塔の写真を撮っているのは筆者
昨年私は阜新にある、かつて要塞だった二つの城郭を訪れた。最盛期には交通の要衝、経済発展の中心地であり、牧民と農民が共存していたところである。現在の阜新市内から北西26キロに位置する成州(現紅帽子郷)の城壁跡に立って、私は当時の活気溢れる人口4000人の都市の様子を思い浮かべてみた。人口の8割程度が、俘虜として連れて来られたか、原住地の生活に耐えられず、逃げて来た漢族の人々であったろう。成州は農耕に基礎をおいた貿易により、大いに繁栄していた。この城郭は長方形をしており、四隅に城門と望楼を有し、内には市場、寺院そして居住地区を擁していた。遥か遠方の丘に遼塔が建っているのが見える。この成州においては契丹と漢の文化が見事に融合していたのである。

成州は1021年に聖宗の皇女岩母菫の婚礼に際し建設された。不幸なことに、聖宗の死後、皇后蕭耨斤は自らが政治の実権を握ることに反対した娘婿を殺害し、岩母菫を叔父にあたる別の蕭一族の男と結婚させた。

時の推移とともに姿を消した、もう一つの城郭は、現在阜新北方の塔菅子郷の一部となっている懿州である。ここも聖宗が1023年、3番目の皇女槊古の結婚に際し、私領地として造ったものである。槊古の娘蕭観音は、後に道宗の皇后となったが、この才気溢れた女性は讒言によって不義の罪を着せられ、自殺に追い込まれた。この悲劇を機に遼帝国の衰退が始まったと言われている。

懿州は幹線道路と水上交通の要衝として重要であり、その河港から積み出された穀物は、海を渡って朝鮮半島の高麗との交易品となった。成州と同様、懿州も約4000の人口を有し、その大部分は入植した漢族の人々であった。ここでも私は、広大なトウモロコシ畑の中に、城壁跡を発見した。ただし現在、目に見える唯一の残存物は900年以上もの歳月を経た塔菅子塔のみであった。遼代特有の八角塔は、壁面にわずかな浮彫を残すだけであったが、往時のこの地の盛況ぶりを見てきた歴史の証人と言えよう。

鶏冠の柄のついた白磁の水入れ(皮嚢壺) 遼三彩の水差し。頭部は龍、胴体は魚。鳥の翼を持ち、蓮の花の上に置かれている 阜新博物館展示の墓陵から発掘された鉄製の鐙

阜新博物館では、私はこの地域の特徴である草原と農耕社会の融合を示す三つの展示品に注目した。一対の鉄製の鐙は騎馬民族の雄姿を思わせる。鶏冠の柄を持つ白磁の水容れは、定住社会を示唆するものであるが、元はと言えば馬鞍に下げる皮袋をデザインしたものである。三つ目の水差しは典型的な遼三彩で、阜新一帯で生産された工芸品の文化水準を如実に示している。

この地では現在、蕭、耶律一族の墓陵の発掘によって光輝ある一族の歴史にいっそうの光が当てられつつある。そこから私たちは契丹の「心臓部」の城郭群を育んできた風土と蕭一族の政治的葛藤、そして強烈な個性を持った女性たちの物語をさらに深く身に染みて感じ取ることができる。

 

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