何度もよみがえった静安寺  
 

高原=文・イラスト 馮進=写真

毎年上海を訪れているが、そのたびに必ず静安寺に足を運ぶ。  初めてそこに足を踏み入れたのは、2004年の初冬だった。梅龍鎮広場のあたりをぶらぶらと歩いていると、ふいに目の前に巨大な城門のような建築が現れた。見上げるようにしてじっくりと眺めてみると、それは城門ではなく寺院の山門で、「静安寺」と書かれていた。

南京西路という最もにぎやかな商業エリアにある静安寺

静安寺という名前がまさにぴったりだと思う。南京西路のもっともにぎやかな商業エリアに位置し、東側に久光百貨店、西側に百楽門(パラマウント)、北側にはホワイトカラーの若者たちに人気のある静安小亭服装市場がある。南京西路は、寺の正門の前にぴったりはりついていて、門を出たらそのまま車に乗れるような大通りだ。この静安寺以上に、「喧噪のなかの静けさ」という言葉が似合う寺院はないのではないだろうか。  

ここは非常に地価の高い南京西路であり、面積も限られているため、境内の建築は、いずれも高層建築になっている。北側の本来正殿の位置だけががらんと空っぽで、そこにはコンクリートの高い台があるだけである。台の下に扉が見える。扉を押してみると、その中で僧侶と信者たちが念仏を唱え、法事をしている最中であった。

この臨時の本堂は、見たところ工事現場の掘っ立て小屋を思わせるほどに粗末で、仏の絵が正面の壁に貼られ、タングステンフィラメントランプが薄暗い明りを撒き散らしている。また別のところには、三、四つの大きなタライが整然と並べられており、僧侶の衣服が水に浸したままになっている。そんな環境も、僧侶と信者たちの敬虔な祈りには何の影響も与えない。 

斯は是れ陋室にして、惟だ吾が徳のみ馨れり

その後、上海を訪れるたびに修復がどのように進んでいるのかを見るために静安寺に立ち寄った。

二年ほど経つと、コンクリートの台の上に十数本の巨大な柱が立った。

さらに一年経つと、柱の上に梁がかかった。  いつしか五年の月日が流れた。すべて木造の本堂がついに完成した。華麗な純銅の瓦屋根がことのほか目を引く。しかし、祭られているはずの仏像の姿はなく、仏像が安置されるはずの場所には、赤い札が立ててあるだけである。その札には、「引き続きみなさんの寄付をお願いいたします。目標は二トンの純金の釈迦牟尼仏の建立です」と書かれている。完成するのはいったいいつのことだろう。

静安寺のマークとなっている古代インドの阿育王(アショカ王)式梵幢 静安寺大雄宝殿

毎年静安寺を見に行くが、いつ行っても、常に「改修工事中」である。静安寺の資料をめくっているうちに、はっと悟った。この寺にとって、「改修工事中」こそが、ある種の正常な状態であるのだ。これまでの静安寺の歴史そのものが、絶えず破壊され、修復されてきた歴史であった。

現在の静安寺はいかにも真新しく見えるが、ここは歴史ある古刹であり、上海よりもずっと長い歴史がある。伝えられるところによれば、最初は三国時代、呉の孫権の赤烏十年(247年)、今から千七百年あまり前に建てられた。当初は滬瀆重玄寺という名で、呉淞江の北岸にあった。唐代には、永泰禅寺と改名したが、北宋の大中祥符元年(1008年)に現在の静安寺という名になった。宋の嘉定年間(1208〜1224年)に、川の近くにあったために寺の基礎が倒れてしまう危険性があり、蘆蒲沸井浜に移された。それが現在の場所である。

元の時代(1206〜1368年)以降、静安寺は不運に見舞われ続けた。元・明時代には繰り返し栄えては廃れたが、その後、清の乾隆年間(1736〜1795年)に二度修復され、線香の火は絶えることなく、日増しに盛んになった。しかし残念なことに、太平天国が上海に攻め込んだとき、本堂のみを残して戦火に焼かれてしまった。

光緒元年(1875年)には、この本堂も倒壊してしまった。

光緒三年には、住職が寄付を募って山門と仏殿を修復したが、資金不足のために途中で工事の中断を余儀なくされた。仏像は肩に蓑をかけ頭に笠をかぶっているだけで、長年風雨にさらされてきた。その後十数年、静安寺は絶えず修理を重ね、光緒二十年に全面的に修理、増築され、現在の規模が形成された。

しかし思いもよらぬことに、そのわずか五年後、上海の共同租界の拡張のために租界当局は静安寺に歴代祖師の墓の引っ越しを迫り、道路建設のために大雄宝殿の西側の家屋を取り壊してしまった。

民国時代(1912〜1949年)になると、参拝に来る人が増え、寺はさらに増築され、面目を一新した。1949年の新中国建国後には、唐代以来長い間失われていた全国唯一の真言宗(密宗)の壇場が復興され、拝みにやってくる参拝客もさらに増えた。

 静安寺の2009年のクリスマスの夜  静安寺内には高さ3.78メートル、幅2.6メートルの釈迦牟尼玉仏座像が祭られている。この玉仏は西静寺の住持である真禅法師と賈劲松居士が1989年夏、シンガポールに赴いて招いたものである

しかし、好況は続かず、文化大革命の間には、寺は深刻な破壊を受け、あらゆる仏像、法器などはすべて叩き壊され、僧侶たちは還俗させられ、寺の建物も工場として占拠された。一九七二年、さらに大火事によって大雄殿はすっかり焼きつくされてしまった。現在、私たちが目にしているのは新静安寺であり、一九八四年から少しずつ修復が重ねられてきたものである。

何度も破壊されたものの、何度も修復を重ね、静安寺は粘り強く生き残ってきた。このときこの寺にどんな建物があったのか、黄金の釈迦像があったか否か、ひいては寺があったかどうかさえ、もはや重要なことではない。人々の心の中には消えることのない静安寺があるのだから。

少し前、無錫の霊山梵宮を訪れたときのことを思い出した。そこは世界仏教フォーラムが行われ、豪華な宮殿が建造されている場所である。高いドーム型の屋根には複雑な飛天のレリーフが施され、ホールの奥は七色の瑠璃の「華蔵」世界であり、さらにもっとも大きく壮観な聖壇、三十メートルの高さのドーム型の天井にびっしりと千体の仏像が並んでいる。

このような現代人が建造した仏教宮殿は、非常にゴージャスで贅沢で、手がこんでいる。しかし、それを見ると思う。「いつまで残るものなのだろう」と。この寺も静安寺と同じように何度もよみがえり、世紀を超えて伝えられてゆくのだろうか。古刹を消えることのないものたらしめたのは、いったい何なのか。人々の信仰はなぜひとつところに集中して託されるのか。すべては偶然なのだろうか。

毎年静安寺に足を運ぶのは、いつかその答えを知ることができるのではないかと期待しているからかもしれない。

 

人民中国インターネット版 2010年6月28日

 

 
 
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