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凌家灘 五千年の時を経た地下博物館

 

石錐 先進的な玉器制作加工具

凌家灘の玉器の工芸技術は、原材料の選択から設計・切断・研磨・穴あけ・彫刻・ツヤだし研磨など、どの制作過程も相当高度なレベルにある。ある耳飾は「ラッパ」のような形状をしているので、玉喇叭飾りと呼ばれ、高さ、口径、底径、厚みが、それぞれ1.3、1.7、0.9、0.09センチあり、専門家によれば、これだけ精巧で、流れるような曲線美をもつ円弧形の玉飾を作るには、手作業では困難で、機械加工でなければ不可能なのではないかと考えている。

凌家灘では現在まだ玉器制作加工具は発見されていないが、両端に錐がある石錐は出土している。錐の先端部は螺旋状で、細い方の錐は、長さ、直径、先端部直径がそれぞれ0.5、0.3、0.1センチで、太いほうの錐の先端部は既に磨耗して平らになっている。張教授たちは自らこの石錐を使って穴を開ける実験を試みたが、全く動かないことから、専用の伝動装置なしでは、石錐を高速で回転させて穴を開けることはできないと判明した。ここから当時すでに原始的な機械工具が存在したのではないかと推測される。

張教授はこの石錐の発見を高く評価している。錐の先端部こそ石製で、現代のさまざまな最先端の錐と同レベルで論じることはできないが、その設計と製造過程で使われた機械、力学、幾何学などの基本原理は完全に同じで、特に錐の先端部の螺旋の独創的設計には非凡な価値があるという。そのため、凌家灘の石錐は中国の二十世紀における新石器時代に関する考古学上の最も重要な発見の一つと評価されている。

2002年3月、張教授は台湾の古玉研究家である陳啓賢氏と共同で、最新の偏光立体顕微鏡を使って、古玉の制作過程でできた細かな瑕に対して観察・実験を行い、歴史的情報の採集を試みた。拡大率50倍の顕微鏡を通して、玉の穴の中に残っていた当時の穴あけ作業時の玉芯が発見された。測定の結果、その玉芯の直径は0.15ミリだった。ここからこの玉芯の穴を開ける錐の直径が研磨用の水と砂を合わせても、たった0.17ミリで、人の髪よりさらに細いという驚愕の事実が引き出されてくる。

石錐で穴を開けるには、管錐を使う以外に玉芯を保つ方法はない。凌家灘では大小さまざまな玉芯が大量に出土し、これまでの通説では、古代人は骨管や竹で穴開け作業をするとされてきたが、骨や竹では穴を開ける際の高速回転に耐えられないことが判明している。ならば、当時の玉職人たちは一体どのような工具で玉芯が残る穴あけ作業を行っていたのだろうか。これはいまだに解明されていない古代史上の大きなミステリーだ。今、私たちにできるのは、五千年前の0.15ミリの玉芯から当時の玉器制作加工具の先進性に驚くことだけだ。

玉亀と玉版 原始八卦図

凌家灘で出土した文物の中で最も貴重なものは玉亀と玉版で、1987年に出土した時は考古学界を震撼させた。

玉亀は上下に穴が開けられた甲羅の背と腹のパーツからなり、これらは紐で一つに結ぶことができ、玉版は玉亀の甲羅の背と腹の間に挟むものだ。出土した時、それらは墓の主の胸の上に安置されていて、同時に出土した百点もの玉製副葬品の中でも際立った位置を占めていた。この玉亀と玉版には一体どのような意味が込められていたのだろう。

亀甲占いは夏(紀元前2070~同1600年)、商(或いは「殷」ともいう。紀元前1600~同1046年)、周(紀元前1046~同256年)の三王朝で一般的となるが、凌家灘の玉亀も亀甲占いと関わりのある文物だと考えられる。中国歴史博物館館長の兪偉超氏(故人)の推測によれば、当時の亀甲占いは、先ずシャーマンが呪文を唱え、次に占いの対象を玉亀の腹の中に入れ、紐で縛ってそれを振り、それから紐で縛った玉亀を解いて、占いの対象を外に出して、その吉凶を占ったのではないかと考えられている。

玉版の神秘的な紋様は専門家たちの学問的興味をかきたてる。そこには上古の暦法、方位、世界観などが内包されていると考えられている。張教授の見解によれば、方形玉版は大地を表し、玉版の大きな円の紋様は宇宙と天球を表している。「天は球体、地は方形」というのが古代人の世界観だったのだ。玉版中央の小さな円は太陽を、円内の八角紋は太陽光をそれぞれ表している。小円と大円の間の八つの「圭」の字形(上がとがって下が四角の形)の紋様は、東・西・南・北と北東・南東・北西・南西の八方位を表しており、これは即ち八卦図の八つの占術的表象で、大円外にある四つの角に対する四つの「圭」字紋は春夏秋冬を表し、これらは『史記』が語る「四維已定、八卦相望」のことだ。もしこれらの見解が正しいならば、玉版の紋様は宇宙、方位、季節の四季八節(春夏秋冬と立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至)を内包し、また古代占術である四象や八卦の思想体系とも合致することになる。

張教授は、「古い文献には『元亀銜符』『大亀負図』、伏羲氏の『八卦創始』などの神話伝説に関する記載があり、事実、現在出土した玉亀と玉版は亀と八卦の関係を実証していて、5000年前の凌家灘の先住民が原始八卦図を創造していたことを証明している」と語る。

これまで「八卦の創始者」であり、『易経』の作者は伏羲氏と言われてきた。しかし、最近の研究では、『易経』は古代に占術を司っていた数多のシャーマンの代々長い年月の間に蓄積した経験を基に、最終的に西周時代(紀元前1046~同771年)初頭に補足作業の上に編纂されて、今の形になったと考えられている。凌家灘遺跡はまだ文字のない時代だが、凌家灘のシャーマンたちは玉版に紋様、即ち原始八卦図を刻み付けることで、自らの原始的哲学観念を表現したのであり、その意味では凌家灘のシャーマンたちこそ「八卦の創始者」であり、『易経』の最初の作者の一人と言えるのではないだろうか。

祭壇と赤レンガの祖型

1998年10月の第三次発掘調査時には、祭壇の遺跡が発見された。祭壇は長方形で四つの角が丸みを帯び、西高東低の造りで、面積は600平米あり、凌家灘遺跡の墓地の中で最も高い場所に位置している。祭壇は三重構造で、土の層と石の層をそれぞれ地固めして造られており、表層部分には石のサークルと祭祀坑がある。祭壇上にある墓は極めて少なく、大部分の墓はすべて祭壇の周囲に分布していることから、祭壇の神聖さが窺い知れる。

これは今まで中国で発見されたものの中で、最古の大型祭祀遺跡の一つで、研究によれば、この祭壇は集落経済と精神文化の進歩の集中的表れであり、その存在は神権と王権の高度な集中を示しており、凌家灘の先住民が原始的生活とトーテム崇拝よりももう一つ高い次元の文明社会に進みつつあったことを物語っている。張教授は、「祭壇の出現は国家の出現を意味しており、五千年前の巣湖流域に国家の雛形が存在していたことを証明するもので、これは中国古代文明の起源と形成の探求に重要な手掛りとなる」と語った。  

五千年の歳月を経た赤陶製の塊を建材として造られた井戸  凌家灘23号墓の出土現場

2000年10月には、凌家灘でさらに赤い陶製の塊を建材として造られた遺跡が発見された。南北の長さは90メートル、東西の幅は33メートル、総面積は3000平米で、厚みは1.5メートルある。このような建築材料を使った大規模な遺跡は、今のところ中国国内でも他には例がなく、恐らく大型の宮殿か、神廟、或いは集落の中央公園だったのではないかと、張教授は考えている。  

興味深いのは、集落には赤い陶製の塊を建材として造られた井戸もあり、直径約1メートル、深さ約3メートルで、井戸の上半分はその赤い陶製の塊で覆われていた。この井戸は「飲料水の衛生重視」という凌家灘の先住民の文明性の証左だといえる。しかし、井戸底に水を汲む用陶器があまり残されていないことから、王権或いは神権を司る高貴な者専用の井戸だったのではないかと推測される。  

分析の結果、凌家灘遺跡の赤い陶製の塊は稲藁ともみ殻を粘土に混ぜて、形を整えた後、800~1000度の高温で焼いて作られたものと判明した。形はあまり統一されていないが、硬度はかなりのもので、抗圧強度と吸水率は現代のレンガと遜色なく、それゆえに五千年の時を経ても原型を留めていた。中国古建築協会会長の楊鴻勛氏は発掘現場での考察を通じて、ここで出土した赤い陶製の塊は中国建築史上の一大革命で、現在私たちが使っているあらゆる種類のレンガの祖型だと考えている。

凌家灘遺跡の発掘成果は国内外の考古学界を震撼させ、日本の考古学界も非常に注目している。張教授の紹介では、日本の考古学界からもこれまで八回にわたる視察団が遺跡発掘現場を訪れ、その規模は毎回30~40人ほどで、非常に熱心に視察を行っているそうだ。

 

人民中国インターネット版 2010年8月

 

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