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紅軍の運命変えた遵義会議の会場跡

 

金田直次郎・丘桓興=文 馮進=写真

遵義会議会址に隣接して建つ遵義会議陳列館の正面外観
江西・湖南・福建3省を中心に打ち立てられた革命根拠地では、土地革命が進み、土地を得た農民の生産意欲が高まった。江西・福建2省の省境一帯には瑞金を首都とする中華ソビエト共和国が成立するが、こうした革命の進展を蒋介石が手をこまねいて見ているはずはなかった。大軍をさしむけ、生まれたばかりの共和国を「包囲討伐」しようとする。

強大な敵の侵攻を前に党中央(中国共産党中央委員会)は「左」翼冒険主義の誤りを犯し、1933年10月に始まった5回目の「包囲討伐」によって根拠地は窮地に陥った。紅軍第一方面軍(中央紅軍)は翌34年10月、やむなく江西・福建の根拠地を後に、戦略的な大移動を始めた。これが長征で、この長征途上の貴州省・遵義で、中国革命はターニングポイントを迎える。

遵義で何があったのか。

私たちは貴州省北部の遵義市と婁山関・赤水河の革命史跡を訪ねた。

貴州路はすべて山の中である。

遵義市の旧市街、遵義会議会址にもほど近いところにある紅軍街。紅軍当時の雰囲気を持つ町並みが復元され、遵義市の新しい名所に
貴州省の省都・貴陽の龍洞堡国際空港から遵義市までは山間を貫く快適な高速道路が通じている。私たちが空港に降り立ったこの日は、ちょうど4月5日の清明節の日で、杜牧の名詩『清明』の「清明の時節 雨紛々」のとおり、霧雨が小止みなく降り続け、もやにかすむ山々とふもとに黄色い帯のように続く菜の花畑が、水墨画さながらの世界を繰り広げていた。

遵義市は「転折之城 会議之都」(ターニングポイントの街 会議の都)として知られる。2万5000華里(1万2500キロ)を踏破した長征の途上、ここ遵義で党中央政治局拡大会議=遵義会議が開かれたのだ。

労農紅軍はなぜ、革命根拠地を離れて長征の途上に就かねばならなかったのか。いったいどこに向かおうとしているのか。敗走を重ねる紅軍将兵の間には不安が募った。背後には国民党の大軍が迫っていたからだ。

紅軍危急存亡のときを前に

私たちは、さっそく遵義会議会場にあてられた建物(遵義会議会址=会場跡)を訪れ、隣接して建てられた遵義会議陳列館で、どのような会議が開かれたのかを探った。

中央紅軍はソビエト区(革命根拠地)を放棄せざるを得なかった。強大な敵を真っ向から迎え撃つ稚拙な戦いで多くの将兵を失い、活路を「退却」に求めた党中央の決定を、歯ぎしりする思いで見つめてきたのが毛沢東だった。

2階の一室で開かれた

党中央を牛耳っていたのは、総書記の秦邦憲(博古)とコミンテルンから派遣された軍事顧問のオットー・ブラウン(中国名は李徳)。秦邦憲はソ連留学帰りで、戦略といっても、ロシア革命成功の図式しか頭になかったのだ。

毛沢東は長征の行路を、敵の守りが弱い貴州省北部に向けるよう党中央を説得した。党中央はこの方針を受け入れた。この時点で、労農紅軍は将兵の半分以上を失い、兵力は4万弱に激減していたからだ。

紅軍は貴州省北部最大の都市、遵義を攻略し、ここで党中央政治局拡大会議が召集された。

毛沢東は、宿舎をともにした政治局委員の張聞天と候補委員の王稼祥に、紅軍が置かれた危険極まりない現状を話し、中国革命の道理を諄々と説いた。張も王もソ連留学帰りで、中国の情勢に疎かったのだ。

会議では、秦邦憲の報告の後、周恩来が軍事報告を行って、秦とブラウンの軍事指揮上の誤りを指摘した。次に張聞天が「左」翼冒険主義の軍事路線を批判、党中央は誤りを認め、教訓を汲み取らなければならないことを強調した。

続いて立ったのが毛沢東で、なぜ「包囲討伐」を最終的に打ち破れなかったのか、なぜ根拠地から転進せねばならなかったのか、その原因を解き明かした。会議には政治局委員6人、候補委員4人、紅軍代表7人と中央秘書長の鄧小平、ブラウンと通訳の伍修権、計20人が参加していた。

 

 

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