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新中国建設を進める

アメリカの朝鮮侵略に抗議してデモを行う中国民衆

新中国は、成立後に多くの困難と試練に直面した。軍事面では、国民党がまだ百万を超える軍隊を持ち抵抗を続けており、経済上で受け継いだのは極めて立ち遅れ混乱した局面だった。国際関係では米国が、新中国の承認を拒絶したばかりか、他の国家による承認の妨害にも躍起となり、中華人民共和国が国連の正当な議席を回復することも妨害した。また、新中国に対して政治的孤立、経済的封鎖、軍事的包囲の政策をとった。

1950年6月、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮を侵略する米軍は中国の度重なる警告にもかかわらず、中朝国境付近の鴨緑江と図們江(豆満江)にまでせまり、新中国は外部侵略の重大な脅威に直面することになった。この危急の時期に、中共中央と人民政府は抗米援朝を決定した。10月、中国人民志願軍は命を受けて朝鮮の戦場に向かった。参戦した中国人民志願軍は、米国をはじめとする国連軍を鴨緑江付近から38度線付近まで押し戻し、敵軍を停戦交渉の席に着くことに同意させた。その後も2年間の交渉が続く間、米国は全陸軍の3分の1、空軍の5分の1、海軍の半数近くを朝鮮の戦場に投入したが、中国人民志願軍および朝鮮人民軍はこれに鋭く立ち向かい、戦闘をもって交渉を促進させた。そして、ついに1953年7月27日、米国も休戦協定に調印せざるを得なくなったのだった。

抗米援朝戦争によって、中国の国際的威信はかつてなく高められた。米国、ソ連を含む世界各国はみな、中国の世界における重要度を認識しなおさなくてはならないことを感じ取った。

抗米援朝戦争と同じ時期、1950年6月に中央人民政府委員会は『中華人民共和国土地改革法』を公布した。これによって、中国の人口の大多数を有する新解放区の農村で激しい土地改革運動が展開された。土地改革は、全国的範囲で基本的に完成され、中国の封建制度の経済的基礎を打ち壊した。

中国共産党は、1953年から国家建設の最初の5カ年計画(1953-1957年国民経済発展第1次5カ年計画)を実施することを提起し、経済建設任務がすべての国家生活中で最も重要な位置になっていることを指摘した。第1次5カ年計画で決められた指導方針と基本任務は、主要な力を重工業の発展に注ぐことであった

毛沢東の次のような発言は人々に強い印象を残した。「今、われわれに何がつくれるのか。机や椅子、茶碗や急須、米や麦がつくれる。そのほか、粉をひき、紙をすくこともできる。だが、自動車、航空機、戦車、トラクターとなると、1台もつくれない」中国は依然として立ち遅れた農業国家だった。特に、抗米援朝戦争と複雑な国際情勢の影響を受けて、中国の工業、特に重工業の立ち遅れた情況を変革するという客観的な要求は明らかに差し迫っていた。このような歴史的条件のもとで、中国はソ連の経験を参考にし、重工業を優先的に発展させるという工業化路線を選択したのだった。(『中国共産党簡史』(中国共産党党史出版社)に基づく 構成=王 征 翻訳=井上 俊彦)

 

人民中国インターネット版 2011年7月

 

 
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