新しい経済発展モデルを模索

 

沈暁寧=文 新華社=写真提供

1949年10月1日、中国共産党は全国各民族人民を指導した28年に及ぶ困難に満ちた闘争を経て、半植民地・半封建社会の旧中国を覆し、人民が主人公となる新中国の成立を宣言した。しかし、建国の初期には、戦乱に明け暮れた時代の爪痕がいたるところに残り、経済は疲弊し、あらゆる産業が衰微していた。どうしたら新しい産業構造と経済体制を打ち立てることができるのか。経済の再興が中国共産党が直面する重要な課題となった。

以来60年余、中国共産党は模索と実践を積み重ねて、中国を世界第2の経済大国につくりあげたばかりでなく、「中国モデル」と呼ばれる中国の特色ある社会主義の経済体制を創出したのだ。

計画経済をベースに

新中国の成立初期、「洋貨」と呼ばれた多くの外国製品を使用せざるをえなかった時代の記憶は、年配の人々の中にまだ鮮明に残っている。「洋火」(マッチ)、「洋油」(灯油)、「洋釘」(くぎ)、「洋灰」(セメント)などなど。

1992年10月12日、中国共産党第14回全国代表大会が北京の人民大会堂で盛大に開幕、社会主義市場経済体制を確立するための改革の目標が提案・採択された

北京に住む万国平さんは70歳を過ぎたお年寄りだが、「洋火」を使ったことを覚えている。今のマッチと違い、壁やテーブルの脚など乾燥した面で擦れば点火した。火事を引き起こすことも多く、危険極まりなかった。「当時、一箱の値段は2、3分(分は100分の1元)だったが、倹約のため、火が必要な時には、ご近所のかまどから借りることが多かったですね」と万さんは語る。

多くの外国製品が用いられていたことは、中国の工業基礎が薄弱だったことの表れにほかならない。

1949年の中国の重工業生産額は工業総生産額の28.8%を占めていたが、この重工業を支えていたのは、主として海外へ原料や半製品を輸出する鉱山か工場だった。軽工業製品の多くは海外からの輸入に頼っていた。当時、中国の精製糖の生産高は20万トンにも達せず、キューバから蔗糖が輸入されるようになってからは、供給状況がわずかながら改善されたものの、庶民が甘味にありつけるのは、ほんとうに限られた機会だけだった。

経済をすみやかに回復させるため、中国共産党は銀行、鉱山、鉄道など国民経済の命脈に関わる重要な産業を国有化し、国営経済の主導的地位を確立すると同時に、小規模な個人経営や資本家による私営資本主義経済、さらには国家資本主義経済など多種多様な経済形態の共存を認める政策をとった。

3年間の調整期を経た1952年、中国経済は急速に回復し、工業総生産額は1949年に比べ一44.9%増え、34.8%の年平均伸び率を達成した。この年、中国共産党は資金と労働力を集中して重工業を発展させることを目的に第1次5カ年計画を策定した。翌1953年から始まった5カ年計画は、中国経済を高みに上らせるはしごのように、発展・向上の道に導いてきた。

同時に、経済領域における社会主義的改造運動が中国の大陸部で展開された。私営企業を政府が買い取る形で資本家経営から公私合営に変えて、社会主義的経済に組み入れたのだ。また、資金が不足し規模も小さい手工業企業の協同化を促した。経済における社会主義的改造は1956年にはほぼ完了し、社会主義公有制経済の要素が国民経済の93%に達するまでになった。

1956年には、第1次5カ年計画の経済発展目標を一年繰り上げて達成した。1953年から56年にかけて、工業総生産額は19.6%の年平均成長率で伸び、14.7%の成長率目標を上回った。1956年7月、長春第一自動車製造工場は「解放」ブランドの中国初の国産トラックを生産した。同年9月、中国初のジェット戦闘機の試作にも成功した。10月、中国初の真空管製造工場である北京電子管工場が設立された。新中国の経済はこうして、社会主義公有制を基礎に、計画経済の管理モデルにのっとって、勢い盛んな成長期を迎えたのだ。

市場経済通じ急成長

1978年まで、中国の社会主義計画経済モデルは30年の発展の歴史を歩んできた。楊英傑中国共産党中央党学校副教授は、この30年間は中国のさらなる近代化が必要とした基本的工業体系を構築するための重要な期間だったと見ている。この体系の確立は重工業を優先的に発展させるという戦略の指導方針のもとで実現したものだった。そのため、代価は農業、軽工業、サービス業の発展を著しく損なう形で現れた。特に1950年代末からの「大躍進」、60年代からの「文化大革命」などの、成果をあせるあまり現実から離れた極左の政治運動や社会思潮が蔓延し、経済の発展に深刻な影響を及ぼして、国民経済はマイナス成長にさえ転じた。一方、所得分配の「平均主義」は人々の生産意欲をそぎ、生産効率は遅々として上がらなかった。諸物資が不足し、国は配給制を実施せざるをえなかった。当時、都市部の住民には毎月一人あたり一定の食糧、食用油、砂糖、布などの基本生活用品が配給されたが、購入はすべて配給切符によらなければならず、厳格に統制された。四川省の南充市に住む孫洪さんは、当時発行された七百種類以上の切符を収集している。「昔、こうした切符は人々にとって非常に大切なものだったのです。1970年代、私はうっかりして『叁市斤』(1500グラム)の肉配給切符をなくしたため、父からはこっぴどくなぐられ、弟や妹は1カ月間というもの口も聞いてくれませんでした」と、孫さんは辛い思い出も話している。

この30年来、浙江省温州市の民営企業は数々の奇跡を起こしてきた。製造業に限っても、全国のシェアの多くを占める企業が少なくない。服装は10%、靴は20%、カミソリは60%、錠前は65%、メガネは80%のシェアを占める
1978年12月18日、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(11期3中全会)が北京で開かれた。中国の運命を変えたこの会議において、中国共産党はそれまでの極左政治路線を是正したうえ、経済分野で「改革開放」の戦略的思想を打ち出した。

農村では、農民が国や集団に生産任務分を納入した後の農産物を自由に処分できる各戸生産高リンク請負責任制が全国規模で普及した。このやり方は大いに農民の生産意欲を高め、さらには郷鎮企業の誕生にもつながった。

1984年、全国の食糧総生産量は4億35万トンに達し、1978年に比べ33.6%も伸び、一人当たり生産量は400キロに及んだ。菜種・ゴマなどの油料作物、綿花、豚・牛・羊など肉類の総生産量もそれぞれ130%、180%、80%増加した。全体として、全国の農副食品生産物は不足の窮境から抜け出した。

1990年代半ばには、全国の郷鎮企業は数千万人の農村労働力を吸収し、外資系企業、国有企業と並んで中国経済を三分する重要な経済実体にまで成長した。イタリアの有名なエコノミスト、ジョバンニ・アリギ氏はかつて、郷鎮企業は中国経済の急成長においてきわめて重要な役割を果たしたと考えられると指摘したことがある。

都市部では、経済改革は中国の将来の経済を「社会主義」に導くのか、それとも「資本主義」に導くのかをめぐって大論争が繰り広げられ、思想を解放したばかりでなく、さまざまな試みが実際に行われるようになった。1980年、浙江省の温州市で、初めて「個人工商業者営業免許証」が発行され、中国の私営企業の誕生を促すことになった。北京では秀水街が、武漢では漢正街が、「個体戸」と呼ばれる個人経営者が店を並べる通りとして有名になった。国営企業が正統とされた時代に、「個体戸」たちは周囲から好奇の目で見られ、さらには疑惑の目や軽蔑の目でさえも見られたが、その勤勉さで服や雑貨の売り上げを伸ばし、しだいに富を築いて、やがて人々から賛同と高い評価を得るまでに成長したのだった。

1984年、中国科学院に勤めていた研究者の柳伝志氏は、敢然とビジネス界に身を投じ、北京の中関村でIT企業を創立した。最初の従業員は11人。資本金20万元の小さな会社は、20数年の奮闘を経て、今日、国際的に著名なグループ企業――聯想(レノボ)ホールディング社に成長した。2005年、聯想グループはIBM社のノートパソコン部門を買い取り、世界有数のパソコン製造・販売業者になった。

市場経済が勢いよく台頭した時、計画経済こそが社会主義であり、市場経済は資本主義のものである以上、社会主義国家である新中国は、市場経済の道を歩むことはできないと考える経済学者が少なくなかった。これに対して、鄧小平氏は「市場経済が資本主義社会にだけ存在し、資本主義の市場経済しかありえないとする認識は正しくない。社会主義でも市場経済を展開することができる」と指摘した。

1991年、英国のサッチャー元首相が中国を訪問し、当時、中国共産党中央総書記だった江沢民氏に、社会主義と市場経済の両立は不可能であり、市場経済を展開する以上、資本主義を実行すべきで、私有化を進めるべきであると語った。サッチャー女史の見解は当時の国際社会において代表的な考え方ではあったが、江沢民氏は賛同しなかった。この年の年末、上海と深圳に証券取引所が相前後して開設され、資本主義社会の産物だとされていた株が初めて新中国に出現した。こうして中国の資本市場が誕生したのだ。

1年後に開催された中国共産党第14回全国代表大会の報告で、江沢民総書記は、中国の経済体制改革の目標は社会主義市場経済を確立することであると宣言した。鄧小平氏は「この報告に拍手を送る」と満腔の賛意を表明した。

中国共産党が市場経済を選んだのは、計画経済の弊害はすでに明らかであり、国家の発展と国民の利益のためには、変化を求めなければならなかったからだ。模索と決断を経て、市場経済を取り入れてこそ中国経済を窮地から救い出せるとの結論にたどりついた。事実が証明しているように、社会主義市場経済を確立するとの選択は正しかった。

 

 

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