平和統一めざし「一国二制度」

 

張雪=文 馮進=写真

今年7月1日、香港は復帰から14年を迎えた。五月、スイス経営開発国際研究所(IMD)は最新の2011年版『世界競争力年鑑』を発表した。これによると、中国の香港は米国とともに一位に並んだ。2011年、世界で最も競争力がある地域にランクされたのだ。2010年、米国のヘリテージ財団と『ウォール・ストリート・ジャーナル』が2011年版『経済自由度指数』を発表、香港は16年連続で1位を占めた。

だが、香港とマカオ(澳門)が復帰する前、欧米のメディアは香港とマカオの未来に対して悲観的な予測が多かった。1995年、米国のビジネス誌『フォーチュン』は特集「デス・オブ・ホンコン(香港の死)」の中で、「香港はいったん中国に復帰すると、間違いなく活力に満ちた国家レベルのビジネスと金融センターとしての地位を失うだろう。ビジネスマンは香港を離れ、腐敗が社会にはびこることになる」と断言した。

鄧小平氏が初めて公言

「一国二制度」が初めて公になったのは、1982年1月11日、鄧小平氏が外国籍の賓客と会見した際だった。「9カ条方針は葉剣英氏の名義で提出したものだ。すなわち『一つの国家、二つの制度』だ」。その略称は「一国二制度」で、「9カ条方針」は1981年9月30日、葉剣英委員長が新華社記者に発表した「九カ条談話」だ。

1982年9月、鄧小平氏は英国のサッチャー首相と会見した際、中国政府の香港復帰に関する基本的な立場を表明した(新華社)

1950年代から70年代まで、中国の台湾政策は毛沢東、周恩来の指示に基づき、過去の「武力解放」から「平和解放」に変わった。その後、鄧氏が「平和解放」を「平和統一」に変更した。すなわち「一国二制度」だ。江沢民前国家主席と胡錦濤国家主席は「一国二制度」をさらに具体化し、整備して実践に移した。

鄧氏の数度の明言と中国政府が1993年8月に台湾問題に対して発表した初めての白書『台湾問題と中国統一』によると、「一国二制度」には四つの基本点がある。1は「一つの中国」、2は「二制度の共存」、3は「高度的な自治」、4は「平和交渉」だ。

これからも明らかなように「一国二制度」は台湾問題の解決を目指して提起されたものだ。しかし、台湾問題の複雑さ、難しさ、長期性のために、この構想はずっと進展を見せなかった。そこで、鄧氏は条件が比較的そろっていた香港問題で「一国二制度」の突破口を開こうとした。

1979年、鄧氏は来訪した第25代香港総督クロフォード・マレー・マクレホース卿と会見した時、初めて香港問題に対しての構想を打ち明けた。「われわれは香港を特別な地域、特別な問題として解決しようと思う。1997年になって、香港問題がどんな方法で解決されても、その特別な地位は保証できる。はっきり言うと、今世紀と次の世紀の相当長い期間、香港では資本主義を実行でき、われわれは社会主義を実行する。したがって、各国の投資家はご安心ください」

1982年9月、英国のサッチャー首相が中国を訪問した。鄧氏は中国政府の基本的な立場を表明した。第1に、香港の主権問題は交渉の必要がない。第2に、1997年、中国は香港の主権を回復する。

その後、数度の交渉、協議を経て、1984年12月19日、中国と英国は最終的に共同声明に調印し、1997年7月1日、中国は香港の主権を回復するという協議を終えた。

1997年7月1日、江沢民国家主席(当時)は香港の復帰を宣言し、復帰後「一国二制度」の方針を堅持することを承諾した。

香港復帰後、「中国政府は香港を管理できるか?」「中国政府は香港で本当に『一国二制度』を実行するか?」という疑問の声が世界中から沸き起こった。それから14年、中国中央政府は世界に「競馬もダンスホールも株売買も元のまま」という約束を証明した。

2007年6月に発行された米誌『タイム』は、25ページの特集を組み、香港復帰から10年の情況について、復帰前より今の香港の方が活力にあふれていると、紹介した。

今でも輝く東洋の真珠

1960年代末に生まれた葉沛能さんは現在、北京のあるシンガポール系不動産会社で働いている。彼は早期に大陸に渡ってきた香港出身者だ。18年前、大陸で仕事を始めた当時を思い出して感無量だ。

アモイの海浜の道路沿いに立っている「一国両制、統一中国」の標語
1993年、葉さんは会社から広州に新設されたホテルに派遣され、管理を任された。会社が昇進と倍の給料を支払うという待遇を約束したことから、大陸勤務に同意した。広州では言葉の問題はほとんどなかったが、本場の香港料理を食べることができない、買い物の時、外貨券しか使えない、など不便なことは山ほどあった。当時はごく少数の外資系会社でしか香港出身者に会えなかったそうだ。

1999年、もっと良いビジネスの機会を求めて、葉さんは北京に移り、以後十数年間そこで生活している。今、葉さんは北京で本場の香港料理を味わうことができ、友だちと一緒にゴルフをすることができ、外貨券に両替する悩みもない。葉さんが携わっている不動産業には、大陸が高度成長期に入っているため、大きな潜在能力があり、事業も日に日に拡大している。今のちょっとした悩みについて「大陸で働く香港やマカオの出身者がだんだん増え、倍の給料や往復航空券の会社負担などの優遇は全部取りやめになりましたよ」と、笑いながら話していた。

1997年7月1日午前零時、香港コンベンションセンターの新翼大会堂で、中国の国旗・五星紅旗が香港の区旗を従えて、ゆっくり掲揚された。「幸運なことに儀式に参加できた私はとても興奮し、普段とは全く違う気持ちでした。前夜から7月1日朝まで、一晩中ずっと眠れませんでしたよ」と、香港中華総商会の蔡冠深会長は思い出して語ってくれた。

蔡会長はじめ香港の人々が心から復帰を祝っていた最中に、予期しないことがひそかに近づいていた。1997年10月、巨大な破壊力を持ったアジア通貨危機が香港を襲撃したのだ。香港株式市場と香港ドルは「満身創痍」の大きな衝撃を受け、損失が極めて大きかった。国際的な金融投機筋は香港を「スーパー現金自動預け払い機」になると言いふらしていた。しかし、中央政府が「いかなる代価も惜しまず、香港の繁栄と安定を維持する」と、香港を全面的に支持したので、1998年8月28日、香港特別行政区政府はついに国際的な投機筋の攻撃を阻止した。

アジア通貨危機の後、香港は2000年のインターネットバブルの崩壊、03年の重症急性呼吸器症候群(SARS)の爆発的流行、08年の世界金融危機に相次いで遭遇した。蔡会長は次のように述懐した。危機は香港経済に衝撃を与えた。復帰後、歩んできた道は決して平坦ではなかったが、多くの危機を克服し、最後までがんばり抜き、早期に回復しただけでなく、経済成長の高速道路に戻ることができた。

2003年、SARSが襲った時、香港経済は谷底に突き落とされた。中央政府はすぐに「大陸部と香港の経済貿易緊密化に関する施策」という政策を打ち出した。大陸部住民の香港・マカオ個人旅行を認め、香港・マカオの経済回復を支援した。「中央政府という強力な後ろ盾がなければ、数々の困難を乗り越えることができなかったし、現在の香港の繁栄と安定もなかったでしょう」と、蔡会長は力を込めて言い切った。

蔡会長は復帰後第2の変化は香港と大陸部の関係がますます緊密化したことだと考えている。「復帰前、香港の人たちは、大陸部は観光に行くところで、住んだり仕事をする場所とは考えもしませんでした。しかし、現在、多数の香港の大学生が北京、上海、広州で就職することを考え始めています。香港の人々には就職、生活、消費様式などで大きな変化が現れています」と、語っていた。

復帰以来、『香港基本法』で具体化した「一国二制度」が実践され、香港の繁栄と安定を維持している。香港の復帰前の資本主義制度と生活様式は変わらず、『香港基本法』で賦与された行政管理権や立法権、独立の司法権、最終裁判権は全面的に履行され、香港の住民たちに幅広い民主的な権利や自由を享受させている。

 

 

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